「山原清子」の版間の差分
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*『K氏邸での撮影』[[奇譚クラブ]]1965年(昭和40年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196501/006.html グラビア](緊縛:[[塚本鉄三]]、モデル:[[山原清子]]) | |||
*[[美しき縛しめ]] 第7集 [[山原清子]]妖艶緊縛『'''刺青の魅力を探ぐる'''』写真集 1966年(昭和41年)4月頃に[[天星社]]から発行か(4月号に[http://nawa-art.com/backnumber/1960/196604/01/005.html 宣伝])? | *[[美しき縛しめ]] 第7集 [[山原清子]]妖艶緊縛『'''刺青の魅力を探ぐる'''』写真集 1966年(昭和41年)4月頃に[[天星社]]から発行か(4月号に[http://nawa-art.com/backnumber/1960/196604/01/005.html 宣伝])? | ||
==[[SMカメラ・ハント]]== | ==[[SMカメラ・ハント]]== |
2014年4月13日 (日) 20:48時点における版
やまはら きよこ。1960年代の奇譚クラブのモデル。15才の時から入れ墨を彫り奇譚クラブ主催の「山原清子の刺青完成会」も開催。S性も強いモデルとして人気を博す。
概要
奇譚クラブ 天星社(白表紙)時代のモデル。愛知県出身の芸妓。SM好きの最初の旦那の影響で15才の時から入れ墨を彫る。Mのみだけでなく、Sもこなしていた。
略歴
1942年(昭和17年)ぐらいの生まれ[1]。
1964年(昭和39年)12月号から1966年(昭和41年)7月号まで分譲写真が発売[2]。
1964年(昭和39年)12月号, p190の辻村隆カメラハントに登場。
1965年(昭和40年)6月27日、 山原清子後援会主催の第1回座談会が大阪で開催。箕田京二、辻村隆他18名が参加[3]。
1965年(昭和40年)頃、賀山茂が奇譚クラブ主催の「山原清子の刺青完成会」に出席している。
1965年(昭和40年)9月27日、 山原清子後援会主催の第2回座談会並びにSMプレイ鑑賞会[4]。
京都女斗菊『山原清子さんの刺青フォトの感銘』奇譚クラブ1965年(昭和40年)6月号
辻村隆『辻村隆・山原清子対談 宴はてて』奇譚クラブ1966年(昭和41年)1月号, p198[注 1]
赤井保『山原清子に寄せる幻想』奇譚クラブ1969年(昭和44年)2月号
1969年(昭和44年)10月号の「編集だより」には「スナックバーのマダムとしておさまっている」とある。
1971年(昭和46年)4月号のサロン我楽記にスナック訪問記が載っている。
1972年(昭和47年)2月号のサロン我楽記にスナック「サニー」を訪問したことが記されている。「S性はいよいよ強烈になっている」と評されている。
山原清子『刺青と女体責め』奇譚クラブ1973年(昭和48年)9月号
関連作品
- 『K氏邸での撮影』奇譚クラブ1965年(昭和40年)1月号, グラビア(緊縛:塚本鉄三、モデル:山原清子)
- 美しき縛しめ 第7集 山原清子妖艶緊縛『刺青の魅力を探ぐる』写真集 1966年(昭和41年)4月頃に天星社から発行か(4月号に宣伝)?
SMカメラ・ハント
- 奇譚クラブのモデル募集を見て応募してきた愛知県の22歳の芸妓。最初の旦那が奇譚クラブ愛読者。15歳から3年がかりで刺青を。
- 旦那が急死。「背中一面に玉取姫の刺青をしているので銭湯にいけず」「バス付きのアパートを借りる費用を捻出する必要」
- 辻村隆は1964年(昭和39年)9月14日に名古屋で初めて山原清子と会う。ホテルで撮影。
- 第1〜3番目の旦那に既に縛られていたので緊縛は慣れている。
引用文献
注釈
- ↑ 前年、第2回座談会並びにSMプレイ鑑賞会の事後対談。会がハードになりすぎたことを辻村に愚痴っている。入れ墨が未完成であることが話題となっている。