「曾我廼家五九郎」の版間の差分

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1876年(明治9年)4月12日、徳島県麻植郡鴨島村に生まれる。
1876年(明治9年)4月12日、徳島県麻植郡鴨島村に生まれる。


1900年前後?、板垣退助、近藤康平の家で書生をつとめたと自称しているが真偽は定かで無い<ref name="gendainohito">河瀬蘇北『'''[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959082 現代之人物観無遠慮に申上候]'''』(二松堂書店, 1917), p355</ref>。
1890年頃、家出同然に上京。近藤廉平の家に居候<ref name="Okamura"> 岡村紫峰 『'''[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/915985 活動俳優銘々伝. 1の巻]'''』 (活動写真雑誌社, 1916)</ref>。
 
1900年前後?、板垣退助の家の玄関版として居候。やがて壮士として政治活動<ref name="gendainohito">河瀬蘇北『'''[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/959082 現代之人物観無遠慮に申上候]'''』(二松堂書店, 1917), p355</ref><ref name="Okamura"></ref>。


1900年頃、[[壮士芝居]]の俳優に。武智元智と名乗る。
1900年頃、[[壮士芝居]]の俳優に。武智元智と名乗る。
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1910年(明治43年)、無声映画に出演。
1910年(明治43年)、無声映画に出演。


1916年(大正5年)、「今では[[曾我廼家五九郎]]は浅草の五九郎ではなく東京の五九郎だ、日本唯一の喜劇名優だ」と紹介されている<ref name="Okamura"> 岡村紫峰 『'''[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/915985 活動俳優銘々伝. 1の巻]'''』 (活動写真雑誌社, 1916)</ref>。
1916年(大正5年)、「今では[[曾我廼家五九郎]]は浅草の五九郎ではなく東京の五九郎だ、日本唯一の喜劇名優だ」と紹介されている<ref name="Okamura"></ref>。


1917年(大正6年)、[[観音劇場]]の経営を任される。
1917年(大正6年)、[[観音劇場]]の経営を任される。

2012年6月26日 (火) 09:19時点における版

曾我廼家五九郎(1876-1940)

そがのや ごくろう、1876年(明治9年)4月12日 - 1940年(昭和15年)7月7日

概要

浅草喜劇役者で、初期の無声映画にも出演した。伊藤晴雨と交遊関係があったようで、観音劇場での『人肉の市』を舞台化の様子を伊藤晴雨の「非小説『性液』」で紹介している。

別名

english、武智故平(本名)、武智元智

略歴

1876年(明治9年)4月12日、徳島県麻植郡鴨島村に生まれる。

1890年頃、家出同然に上京。近藤廉平の家に居候[1]

1900年前後?、板垣退助の家の玄関版として居候。やがて壮士として政治活動[2][1]

1900年頃、壮士芝居の俳優に。武智元智と名乗る。

1907年(明治40年)、曾我廼家五郎の喜劇一座に入門。曾我廼家五九郎と名乗る。吾妻倶楽部、帝國館、常磐座、金龍館などに出演[2]

1910年(明治43年)、無声映画に出演。

1916年(大正5年)、「今では曾我廼家五九郎は浅草の五九郎ではなく東京の五九郎だ、日本唯一の喜劇名優だ」と紹介されている[1]

1917年(大正6年)、観音劇場の経営を任される。

1920年代?、観音劇場で『人肉の市』を舞台化[3][4]

1925年(大正14年)、無声映画『ノンキナトウサン 花見の巻』『ノンキナトウサン 活動の巻』などが大ヒット。

1940年(昭和15年)7月7日、永眠。

エピソード

代表作

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 岡村紫峰 『活動俳優銘々伝. 1の巻』 (活動写真雑誌社, 1916)
  2. 2.0 2.1 河瀬蘇北『現代之人物観無遠慮に申上候』(二松堂書店, 1917), p355
  3. 伊藤晴雨非小説 性液(十)奇譚クラブ1954年(昭和29年)11月号, p68
  4. 伊藤晴雨非小説 性液(十一)奇譚クラブ1954年(昭和29年)12月号, p169

注釈

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つながり

伊藤晴雨 観音劇場