「青木順子」の版間の差分
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1964年(昭和39年)、[[奇譚クラブ]]5月号、[[芳野眉美]]『ガン作マニアのノート』で紹介<ref group="注">「春木順子」となっている。</ref>。 | 1964年(昭和39年)、[[奇譚クラブ]]5月号、[[芳野眉美]]『ガン作マニアのノート』で紹介<ref group="注">「春木順子」となっている。</ref>。 | ||
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1965年(昭和40年)、暮れの頃、「千中ミュージックを定席ににして[[向井一也]]と『本日休診』を上演」とある<ref>[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196601/01/016.html p19]</ref>。 | 1965年(昭和40年)、暮れの頃、「千中ミュージックを定席ににして[[向井一也]]と『本日休診』を上演」とある<ref>[[奇譚クラブ]]1966年(昭和41年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196601/01/016.html p19]</ref>。 | ||
1966年(昭和41年)、[[奇譚クラブ]]2月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196602/03/154.html p157]に丸鬼頭佐渡『青木順子さんについて』。1965年(昭和40年)7月の大阪ダイコーミュージックでの『気の弱い男の愛と死』『内気な男の愛と死』での[[向井一也]]との舞台の詳細を報告。 | |||
1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]11月号の「編集部だより」に「大阪府下を従業しているとの読者からの連絡」「水責めと蝋責めが中心」 | 1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]11月号の「編集部だより」に「大阪府下を従業しているとの読者からの連絡」「水責めと蝋責めが中心」 | ||
1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]11月号, | 1967年(昭和42年)、[[奇譚クラブ]]11月号, p246に「[[青木順子]]のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。 | ||
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2010年10月4日 (月) 16:51時点における版
せい めい、19??年(昭和??年)-
活動内容
別名
略歴
1964年(昭和39年)、奇譚クラブ5月号、芳野眉美『ガン作マニアのノート』で紹介[注 1]。
1964年(昭和39年)、奇譚クラブ11月号の辻村隆『SMカメラハント』、第1回目のモデル。
1964年(昭和39年)11月、東京都立川市の文化ミュージックに出演[2]。
1965年(昭和40年)、奇譚クラブ2月号、p32辻村隆サロン楽我記に「青木順子後援会」のこと。全国巡業をしている様子。
1965年(昭和40年)、奇譚クラブ4月号に辻村隆の「青木順子だより」
1965年(昭和40年)、暮れの頃、「千中ミュージックを定席ににして向井一也と『本日休診』を上演」とある[3]。
1966年(昭和41年)、奇譚クラブ2月号, p157に丸鬼頭佐渡『青木順子さんについて』。1965年(昭和40年)7月の大阪ダイコーミュージックでの『気の弱い男の愛と死』『内気な男の愛と死』での向井一也との舞台の詳細を報告。
1967年(昭和42年)、奇譚クラブ11月号の「編集部だより」に「大阪府下を従業しているとの読者からの連絡」「水責めと蝋責めが中心」
1967年(昭和42年)、奇譚クラブ11月号, p246に「青木順子のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。
エピソード
代表作
引用文献
注釈
- ↑ 「春木順子」となっている。