「若松孝二」の版間の差分
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1936年(昭和11年)4月1日、宮城県遠田郡涌谷町に生まれる<ref name="wiki">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J7HG8S?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J7HG8S 若松孝二『俺は手を汚す』(ダゲレオ出版, 1982)]より。</ref>。 | 1936年(昭和11年)4月1日、宮城県遠田郡涌谷町に生まれる<ref name="wiki">[http://www.amazon.co.jp/gp/product/B000J7HG8S?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=B000J7HG8S 若松孝二『俺は手を汚す』(ダゲレオ出版, 1982)]より。</ref><ref group="注">家は農家で、父親は馬の獣医のようなこともしていた。</ref>。 | ||
1940年代、農業高校1年で中退、家出し上京<ref name="web1">[http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/c3095fb2514e0d44c190cb232d5ed0f6 インタビュー『若松孝二 わが映画履歴書』]より</ref>。 | 1940年代、農業高校1年で中退、家出し上京<ref name="web1">[http://blog.goo.ne.jp/polyhedron-f/e/c3095fb2514e0d44c190cb232d5ed0f6 インタビュー『若松孝二 わが映画履歴書』]より</ref>。 | ||
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1960年前後、ロケの弁当運びから始め、テレビの「鉄人28号」「矢車剣之助」「月光仮面」などの助手<ref name="web1"></ref>。 | 1960年前後、ロケの弁当運びから始め、テレビの「鉄人28号」「矢車剣之助」「月光仮面」などの助手<ref name="web1"></ref>。 | ||
1963年(昭和38年) | 1963年(昭和38年)9月、『甘い罠』([[東京企画]]、睦五郎、香取環)で監督デビュー。 | ||
1965年(昭和40年)、若松プロダクションを設立設立。『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品<ref group="注">西ドイツの映画業者が独自に出品したので「国辱もの」と物議をかもす。</ref>。 | 1965年(昭和40年)、若松プロダクションを設立設立。『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品<ref group="注">西ドイツの映画業者が独自に出品したので「国辱もの」と物議をかもす。</ref>。 |
2010年5月11日 (火) 19:00時点における版
わかまつ こうじ、1936年(昭和11年)4月1日-
活動内容
別名
略歴
1936年(昭和11年)4月1日、宮城県遠田郡涌谷町に生まれる[1][注 1]。
1940年代、農業高校1年で中退、家出し上京[2]。
1957年(昭和32年)、新宿で安田組[注 2]のヤクザの下働きなどをし、逮捕され半年間勾留[2]。
1960年前後、ロケの弁当運びから始め、テレビの「鉄人28号」「矢車剣之助」「月光仮面」などの助手[2]。
1963年(昭和38年)9月、『甘い罠』(東京企画、睦五郎、香取環)で監督デビュー。
1965年(昭和40年)、若松プロダクションを設立設立。『壁の中の秘事』がベルリン国際映画祭に出品[注 3]。
1976年(昭和51年)、大島渚『愛のコリーダ』のプロデュース。
2007年(平成19年)、『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』が第20回東京国際映画祭にて「日本映画・ある視点 作品賞」を受賞。2008年の第58回ベルリン国際映画祭において最優秀アジア映画賞(NETPAC賞)と国際芸術映画評論連盟賞(CICAE賞)を受賞。毎日映画コンクールで監督賞、日本映画評論家大賞で作品賞を受賞。
2010年(平成22年)、ベルリン国際映画祭出品の『キャタピラー』で主演の寺島しのぶが銀熊賞を受賞。