「Bizarre」の版間の差分

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1954年(昭和29年)、No.14のカバーは[[Bettie Page]]
1954年(昭和29年)、No.14のカバーは[[Bettie Page]]


1950年代前半、[[奇譚クラブ]]編集室にWilliam Jordan Verbeck<ref group="注">オランダ生まれ、米国育ちのグイド・フルベッキの孫に当たる。1859年から死去まで日本で教師。息子のグスタヴ(Gustave Verbeek、1867年 - 1937年)はアメリカに渡り、ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家。</ref>が[[Bizarre]]2号を持ち込み、その挿絵が[[奇譚クラブ]]に転用される<ref group="注">[[奇譚クラブ]]1954年1月号に「最新欧米女」で杉原虹児構成の絵がある。2,3月号にも子馬人間が。</ref><ref name="kitan">藤見郁・T. C. Moriscita『謎の人物、ジョン・ウィリーについて』(ショッキング画集1, 1964)より。</ref>。
1950年代前半、[[奇譚クラブ]]編集室にWilliam Jordan Verbeck<ref group="注">オランダ生まれ、米国育ちのグイド・フルベッキの孫に当たる。1859年から死去まで日本で教師。息子のグスタヴ(Gustave Verbeek、1867年 - 1937年)はアメリカに渡り、ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家。</ref>が[[Bizarre]]2号を持ち込み、その挿絵が[[奇譚クラブ]]に転用される<ref group="注">[[奇譚クラブ]]1954年1月号に「[http://nawa-art.com/backnumber/1950/195401/195401_010.html 最新欧米女体責より]」で[[杉原虹児]]構成の絵がある。[http://nawa-art.com/backnumber/1950/195402/008.html 2月号],[http://nawa-art.com/backnumber/1950/195403/195403_008.html 3月号]にも子馬人間が。</ref><ref name="kitan">藤見郁・T. C. Moriscita『謎の人物、ジョン・ウィリーについて』(ショッキング画集1, 1964)より。</ref>。


1957年(昭和32年)、[[John Willie]]の秘書に所有権が委譲<ref name="Wiki">[http://wiki.bmezine.com/index.php/Bizarre_Magazine_(US) Bmezine.com "Bizarre Magazine (US)”]の項より。</ref>。[[John Willie]]はロサンジェルスに移る<ref name="sm201">[http://www.backdrop.net/sm-201/index.php?title=Bizarre_magazine SM-201]より</ref>。
1957年(昭和32年)、[[John Willie]]の秘書に所有権が委譲<ref name="Wiki">[http://wiki.bmezine.com/index.php/Bizarre_Magazine_(US) Bmezine.com "Bizarre Magazine (US)”]の項より。</ref>。[[John Willie]]はロサンジェルスに移る<ref name="sm201">[http://www.backdrop.net/sm-201/index.php?title=Bizarre_magazine SM-201]より</ref>。

2010年7月8日 (木) 18:18時点における版

Bizarre magazine』は、1946-1959年米国でJohn Willieにより発行されたBondage 雑誌。

概要

発行年・出版社

発行人・編集人

John Willie

主な出来事

1946年(昭和21年)、John Willieにより創刊。

1946年(昭和21年)、No.3から緊縛写真が。Learn Jiu-Jitsu。

1948年(昭和23年)、金銭的問題で『Bizarre』は1950年(昭和25年)まで発行を中止。

1952年(昭和27年)、No.11にやや複雑な縛りが。

1954年(昭和29年)、No.14のカバーはBettie Page

1950年代前半、奇譚クラブ編集室にWilliam Jordan Verbeck[注 1]Bizarre2号を持ち込み、その挿絵が奇譚クラブに転用される[注 2][1]

1957年(昭和32年)、John Willieの秘書に所有権が委譲[2]John Willieはロサンジェルスに移る[3]

No.21にFakir MusafarがIBITOEについて寄稿。

No.25にHogtieに近い縛りが。

1959年(昭和34年)、26号で終刊[3]

エピソード

  • 郵送でのみ入手可能で、手書きの絵が用いられていた。John Willieがほとんどすべての作品を書いていた[2]
  • ヌードは登場しない。「蜂の胴」「ポニーガール」が好きなテーマ。
  • Fakir Musafarが『Ibitoe』などを寄稿していた[2]
  • Irving Klaw, Eric Stanton, EnegらがBizarre magazineから生まれたという表記がしばしば見受けられるが未確認。
  • 最後の方で、出版をIrving Klawにまかせてイギリスに戻ったという表記がしばしば見受けられるが未確認。
  • 投稿されたウィリーの妻の告白文がでっち上げであると告訴とされたとある[1]
  • 2005年(平成17年)にTaschen社から『The Complete Bizarre Reprint for Slaves of Fashion』が発刊されている。
  • John Willieの代表作であるボンデージ・コミックの元祖、「スウィート・グウェンドリン(Sweet Gwendoline)」はBizarre magazineで誕生している[2]
  • 2005年にEric Kroll がTaschen社から『The Complete Bizarre Reprint for Slaves of Fashion』が出版された。

参考資料

  1. 藤見郁・T. C. Moriscita『謎の人物、ジョン・ウィリーについて』(ショッキング画集1, 1964)より。
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 Bmezine.com "Bizarre Magazine (US)”の項より。
  3. 3.0 3.1 SM-201より

注釈

  1. オランダ生まれ、米国育ちのグイド・フルベッキの孫に当たる。1859年から死去まで日本で教師。息子のグスタヴ(Gustave Verbeek、1867年 - 1937年)はアメリカに渡り、ニューヨーク・ヘラルド紙などに寄稿した漫画家。
  2. 奇譚クラブ1954年1月号に「最新欧米女体責より」で杉原虹児構成の絵がある。2月号3月号にも子馬人間が。

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