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[http://ameblo.jp/takashi-san/entry-10361575543.html 映画における緊縛指導 〜その3〜 団鬼六]<br> | *[http://homepage2.nifty.com/074/hana201.htm 団鬼六長編作品リスト]<br> | ||
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2010年3月16日 (火) 22:25時点における版
だん おにろく、1931年(昭和6年)4月16日 -
活動内容
文筆家。仕掛人。
別名
Oniroku Dan、黒岩幸彦(本名)、花巻京太郎、淡路周五、黒岩松次郎。
略歴
1931年(昭和6年)4月16日、滋賀県彦根市四番町土橋の映画館「金城館」経営者の子としてに生まれる[1]。
1943年(昭和18年)、「金城館」は人手にわたり、一家は大阪東淀川区神崎川に移る。関西学院の中学部に入学。
1947年(昭和22年)、関西学院高等部の1年に編入。
1958年(昭和33年)、奇譚クラブの懸賞小説に応募。「お町の最後」で7月号に掲載。
1962年(昭和37年)、『花と蛇』1〜3回を花巻京太郎の名で奇譚クラブに。
1963年(昭和38年)、『花と蛇』再開。団鬼六の名で。
1965年(昭和40年)、山邊信夫と共に『花と蛇』を制作[注 1]。
1966年(昭和41年)頃、賀山茂に谷ナオミを紹介する[2]。
1969年(昭和44年)5月、渋谷区桜ヶ丘にアパートを借り、鬼プロを設立。たこ八郎が住み込み。
1969年(昭和44年)5月、鬼プロ制作『女極道色欲一代』が公開[注 2]。
1971年(昭和46年)、渋谷区道玄坂の新築の三信マンションに引っ越し。
1971年(昭和46年)、目黒区目黒三丁目(大鳥神社近く。)に部屋数7つ300坪の豪邸を借り、タコ劇団をこちらに移す。三崎から家族を呼ぶ。
1972年(昭和47年)、SMキング創刊。
1974年(昭和49年)、にっかつ『花と蛇』が公開[注 3]。SMキング廃刊。
1977年(昭和53年)、奥沢に転居。大岡山に仕事場を借りる。
1980年(昭和55年)、横浜の桜木町に転居。
1983年(昭和58年)、最初の妻と離婚。
1984年(昭和59年)、鬼プロ解散。宮本安紀子と再婚。
1986年(昭和61年)、桜木町の旅館を買い取り三階建ての邸宅、翌年完成。屋上にはビアガーテン
エピソード
代表作
『花と蛇』
自伝
引用文献
- ↑ 団鬼六『蛇のみちは―団鬼六自伝』(幻冬舎, 1997)
- ↑ 2.0 2.1 『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。
注釈
つながり
吉田稔 須磨利之 辻村隆 賀山茂 山邊信夫 谷ナオミ 杉浦則夫 たこ八郎 有末剛