「渋谷テアトルSS」の版間の差分
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'''しぶやてあとるえすえす'''。1951年(昭和26年)12月、渋谷百軒店(道玄坂2丁目)に映画館として開館。遅くとも1962年(昭和37年)6月には[[ストリップ劇場]]に。 | '''しぶやてあとるえすえす'''。1951年(昭和26年)12月、渋谷百軒店(道玄坂2丁目)に映画館として開館。遅くとも1962年(昭和37年)6月には[[ストリップ劇場]]に。 | ||
==概要== | ==概要== | ||
渋谷百軒店が繁華街の中心だった1951年(昭和26年)に映画館として開館。遅くとも1962年(昭和37年)6月には[[ストリップ劇場]]に変わっていた模様。ダンサーが[[日劇ミュージックホール]]に引き抜かれるなど、ストリップ劇場の中では存在感のある劇場だったようだ。閉館時期は調査中。 | |||
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*「1956年5月の山手大空襲で焼けるまでの17年が第1期。渋谷で一番にぎやかな場所だったのだろう。戦後も1946年から復興がはじまり、戦災で焼け残った渋谷キネマはテアトル渋谷となり、テアトルハイツ、[[テアトルSS]]といった映画館と数多くの飲食店ができて、渋谷一の歓楽街となっていった。ここにボーリング場があった時期もある。60年代後半から70年代初めにかけてのことだろう。この1946年から75年までの30年を第2期と区切ってみる。」<ref name="rekisitoima">[http://shibuya-west.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-d5a9.html 百軒店の歴史と今(4月6日)]</ref> | *「1956年5月の山手大空襲で焼けるまでの17年が第1期。渋谷で一番にぎやかな場所だったのだろう。戦後も1946年から復興がはじまり、戦災で焼け残った渋谷キネマはテアトル渋谷となり、テアトルハイツ、[[テアトルSS]]といった映画館と数多くの飲食店ができて、渋谷一の歓楽街となっていった。ここにボーリング場があった時期もある。60年代後半から70年代初めにかけてのことだろう。この1946年から75年までの30年を第2期と区切ってみる。」<ref name="rekisitoima">[http://shibuya-west.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-d5a9.html 百軒店の歴史と今(4月6日)]</ref> | ||
*1963年頃、「ハイツの他、[[テアトルSS]]というストリップ劇場もあり、ここはストリップ劇場の中では地位の高い名門だったらしい。」<ref name="warui">[http://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/8cff1744d7171737b64248e3a018bce3 『悪い奴ほどよく眠る』]</ref> | *1963年頃、「ハイツの他、[[テアトルSS]]というストリップ劇場もあり、ここはストリップ劇場の中では地位の高い名門だったらしい。」<ref name="warui">[http://blog.goo.ne.jp/goo1120_1948/e/8cff1744d7171737b64248e3a018bce3 『悪い奴ほどよく眠る』]</ref> | ||
*1964年頃、「渋谷の[[テアトルSS]]というストリップ劇場で踊っていた彼女(五月美沙) | *1964年頃、「渋谷の[[テアトルSS]]というストリップ劇場で踊っていた彼女(五月美沙)を[[日劇ミュージックホール|ミュージックホール]]に引き抜いてきたのは橋本荘輔プロデューサーだった。」「引き抜きに遭った[[テアトルSS]]側は反発し、一時はもしかすると血の雨も降るかといった不穏な事態だった」「引き抜きは橋本プロデューサーが独断で行っており責任者の[[丸尾長顕]]は外国にいて知らなかった。帰国した丸尾は事態収拾に走った。その結果、金銭トレードのうえ、はじめの二か月はミュージックホールが借り受け、そのあと専属にするというかたちで話がついた。」<ref name="hichigeki">[http://nokorika.exblog.jp/m2013-02-01/ 夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌]</ref>。 | ||
*「ぼくが大学生の頃(昭和40年代も初めのころ)、『[[テアトルSS]]』というストリップ劇場があって、渋谷区本町に住んでいたぼくはバスに乗ってよく通った。その後、SSも消滅し、ぼくも東京を離れ、百軒店との縁は失せた。数年して帰京すると、時たま訪れるこの街は、周囲のラブホテル街に圧迫されて活力を失って、魅力に乏しい街になっていた。」<ref name="hyakken">[http://tate.32ch.jp/shosai/diary/haikai/100kendana.html 黄昏の百軒店]</ref>。 | *「ぼくが大学生の頃(昭和40年代も初めのころ)、『[[テアトルSS]]』というストリップ劇場があって、渋谷区本町に住んでいたぼくはバスに乗ってよく通った。その後、SSも消滅し、ぼくも東京を離れ、百軒店との縁は失せた。数年して帰京すると、時たま訪れるこの街は、周囲のラブホテル街に圧迫されて活力を失って、魅力に乏しい街になっていた。」<ref name="hyakken">[http://tate.32ch.jp/shosai/diary/haikai/100kendana.html 黄昏の百軒店]</ref>。 | ||
2014年11月9日 (日) 10:55時点における版
しぶやてあとるえすえす。1951年(昭和26年)12月、渋谷百軒店(道玄坂2丁目)に映画館として開館。遅くとも1962年(昭和37年)6月にはストリップ劇場に。
概要
渋谷百軒店が繁華街の中心だった1951年(昭和26年)に映画館として開館。遅くとも1962年(昭和37年)6月にはストリップ劇場に変わっていた模様。ダンサーが日劇ミュージックホールに引き抜かれるなど、ストリップ劇場の中では存在感のある劇場だったようだ。閉館時期は調査中。
別名
所在地
東京都渋谷区道玄坂2丁目
歴史
1951年(昭和26年)12月、定員座席数281の映画館として開館。
1962年(昭和37年)6月、ユーモアグラフ6月号の広告に「渋谷唯一のヌード劇場」とある。
1963年(昭和38年)7月13日、『SS・Strip show もみじも裸いろざかり』2部22景が実演[1]。
1964年(昭和39年)7月25日、大映映画「卍」(増村保増監督の若尾文子のヌードの吹き替えに、「セントラルSS」[注 1](渋谷)のパール友子が出演する。[1]。
エピソード
- 「百軒店の中心には『テアトル渋谷』、『テアトル・ハイツ』、『テアトルSS』という三軒の映画館に囲まれた小さな広場がありました」[2]。
- 「1956年5月の山手大空襲で焼けるまでの17年が第1期。渋谷で一番にぎやかな場所だったのだろう。戦後も1946年から復興がはじまり、戦災で焼け残った渋谷キネマはテアトル渋谷となり、テアトルハイツ、テアトルSSといった映画館と数多くの飲食店ができて、渋谷一の歓楽街となっていった。ここにボーリング場があった時期もある。60年代後半から70年代初めにかけてのことだろう。この1946年から75年までの30年を第2期と区切ってみる。」[3]
- 1963年頃、「ハイツの他、テアトルSSというストリップ劇場もあり、ここはストリップ劇場の中では地位の高い名門だったらしい。」[4]
- 1964年頃、「渋谷のテアトルSSというストリップ劇場で踊っていた彼女(五月美沙)をミュージックホールに引き抜いてきたのは橋本荘輔プロデューサーだった。」「引き抜きに遭ったテアトルSS側は反発し、一時はもしかすると血の雨も降るかといった不穏な事態だった」「引き抜きは橋本プロデューサーが独断で行っており責任者の丸尾長顕は外国にいて知らなかった。帰国した丸尾は事態収拾に走った。その結果、金銭トレードのうえ、はじめの二か月はミュージックホールが借り受け、そのあと専属にするというかたちで話がついた。」[5]。
- 「ぼくが大学生の頃(昭和40年代も初めのころ)、『テアトルSS』というストリップ劇場があって、渋谷区本町に住んでいたぼくはバスに乗ってよく通った。その後、SSも消滅し、ぼくも東京を離れ、百軒店との縁は失せた。数年して帰京すると、時たま訪れるこの街は、周囲のラブホテル街に圧迫されて活力を失って、魅力に乏しい街になっていた。」[6]。