「澤村田之助」の版間の差分

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1862年(文久2年)、『紅皿欠皿』の宙づりで落下。脱疽を患う。
1862年(文久2年)、『紅皿欠皿』の宙づりで落下。脱疽を患う。


1867年(慶応3年)、ヘボン博士の執刀により左足膝上まで切断。
1867年(慶応3年)、ヘボン博士の執刀により右足切断。


1872年(明治2年)3月、[[森田座|守田座]]で三世[[沢村田之助]]が河竹黙阿弥の[[怪談敷島譚]]を初演<ref>吉田弥生『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/483557947X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=483557947X&linkCode=as2&tag=iq05-22 江戸歌舞伎の残照]'''』(文芸社, 2004)</ref>。
1872年(明治2年)3月、[[森田座|守田座]]で三世[[沢村田之助]]が河竹黙阿弥の[[怪談敷島譚]]を初演<ref>吉田弥生『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/483557947X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=483557947X&linkCode=as2&tag=iq05-22 江戸歌舞伎の残照]'''』(文芸社, 2004)</ref>。
1872年(明治2年)3月、左足も切断。


1878年(明治11年)7月7日、永眠。
1878年(明治11年)7月7日、永眠。
==エピソード==
==エピソード==
*1872年(明治2年)の「[[怪談敷島譚]]」は河竹黙阿弥が[[沢村田之助]]のために作った作品。初演時、[[沢村田之助]]は脱疽で片足を切断していた。その後さらに脱疽が悪化し、四肢すべてを失った。
*1872年(明治2年)の「[[怪談敷島譚]]」は河竹黙阿弥が[[沢村田之助]]のために作った作品。初演時、[[沢村田之助]]は脱疽で片足を切断していた。その後さらに脱疽が悪化し、四肢すべてを失った。

2014年3月24日 (月) 12:14時点における版

1870年(明治3年)頃の沢村田之助。既に両脚を失っていた。

さわむら たのすけ、1845年(弘化2年)2月8日 - 1878年(明治11年)7月7日。夭折した江戸末期〜明治の人気女形歌舞伎役者。河竹黙阿弥が澤村のために書いた「怪談敷島譚」の折檻場面は伊藤晴雨のお気に入り。この時澤村は両脚を失っていた。

概要

江戸末期から明治にかけて活動した歌舞伎役者。女形として人気を博す。『処女翫浮名横櫛』『月缺皿恋路宵闇』『怪談敷島譚』などを得意とする。演技中の怪我から脱疽を患い、両脚、右手首、左手の小指以外の指を失うも舞台を続けた。33歳で精神にも変調をきたし没する。伊藤晴雨のお気に入り。

別名

english、澤村田之助、三代目澤村田之助、三世澤村田之助

略歴

1845年(弘化2年)2月8日 、五代目澤村宗十郎の子として生まれる。

1858年()、三代目澤村田之助を襲名。幼年には立女形。

1862年(文久2年)、『紅皿欠皿』の宙づりで落下。脱疽を患う。

1867年(慶応3年)、ヘボン博士の執刀により右足切断。

1872年(明治2年)3月、守田座で三世沢村田之助が河竹黙阿弥の怪談敷島譚を初演[1]

1872年(明治2年)3月、左足も切断。

1878年(明治11年)7月7日、永眠。

エピソード

伊藤晴雨「一代の人気女形 三代目沢村田之助」より

代表作

引用文献

  1. 吉田弥生『江戸歌舞伎の残照』(文芸社, 2004)

注釈

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