「非小説『性液』」の版間の差分
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*第2回からの続き。明治40年代の'''柳盛座'''での「主思い」の公演の模様。 | |||
*泉鏡花の「三味線堀」(1910)は[[開盛座]]をモデルをしたと思われる。 | *泉鏡花の「三味線堀」(1910)は[[開盛座]]をモデルをしたと思われる。 | ||
:「'''柳盛座'''の看板には女が縛られて居る」とある。 | :「'''柳盛座'''の看板には女が縛られて居る」とある。 |
2012年11月8日 (木) 18:40時点における版
概要
伊藤晴雨が奇譚クラブに1954年(昭和29年)2月号から1955年(昭和30年)2月号まで13回にわたって連載した読み物。演劇、特に責め場を含む演劇に関係した読み物である。「非小説」(ノンフェクション)と銘打っているので、事実に基づく記述だと思われる。実際、他の情報から裏の取れる人物や事件が記載されており、書かれているほとんのことは事実に基づいているのではと思われる。当時の演劇の状況を知る、文献的な価値の極めて高い作品である。ただし、伊藤晴雨その人は、作中に直接登場せず、伊藤晴雨を思わせる複数の人物が登場している。これらが伊藤晴雨そのものなのか、あるいは伊藤晴雨の知人に自分を課させて創作したのかは不明である。
内容
第1回
- 伊藤晴雨『非小説 性液』奇譚クラブ1954年(昭和29年)2月号, p160
- 日露戦争が終わった頃、つまり 1905年(明治38年)9月頃の話。伊藤晴雨はまだ23才頃なので、実体験ではないと思われる。
- 浅草にある鳥越明神(台東区鳥越2-4-1)の祭礼の話。神田明神とライバル関係。
- 鳥越の踊りの師匠、中村登鯉次(女性)門弟の娘踊りを鳥越明神の祭礼で奉納しようという話が。
- ゴロツキの粂吉が中村登鯉次に家に、質屋・佐野屋の旦那の使いで来る。旦那が祭りに際し、神田明神の神楽堂で歌舞伎芝居を一幕出して欲しいと希望。題目は明烏の浦里の雪責め。友江に演じて欲しいと。
- 中村登鯉次は150円という相場より高いヨナイ(芸人が請求した割増給料)で引き受ける。佐野屋の旦那の縛り好きを見越して。
- 浦里を演じた友江は年の頃16,7。中村歌扇(舞台女優。1889-1942)の次の弟子。「責め叩かれ乱れる黒髪」
- この一座(中村登鯉次か?)は数年後に浅草の共栄館の見世物小屋に一座を移し、人気を集める。その責め場を伊藤晴雨が観ていたようだ。
- 佐野屋の旦那が友江を縛っているうちに怪我をさせてしまし、その責任をとって、友江を開盛座の武田清子の弟子にして役者として育てることを約束させられるところで第2回に続く。
第2回
- 伊藤晴雨『非小説 性液(二)』奇譚クラブ1954年(昭和29年)3月号, p131
- 第1回からの続き。
- 1905年(明治38年)8月14日、浅草「開盛座」にて「白無垢鉄火」全七景が初日。脚色は若松信乃。伊藤晴雨は1895年(明治28年)から開盛座の看板を書いていたとされている。
- 友江の初出勤。武田清子と相部屋。佐野屋の旦那のはからいで破格の待遇。座長は中野信近。
- 友江の役は「令嬢綾子」で「縛って水責めにされるという、其の頃流行った残酷芝居の主人公」
- 「美しい高島田で振袖の娘が三尺物の乾分多分に縛られて、長襦袢一枚で井戸端で本水を浴びせられる。打たれ、叩かれて舞台に蹴倒され、頭から十数杯水を浴びせられる」
- 佐野屋の旦那は毎日責め場を観に来る。
- 梅堂豊吉(宮古紫郎の弟子)が友江に惚れる。豊吉は責め場を見て自慰をしたり、女の髪の毛を集めて喜ぶ「変態性慾者」。「此の男が後に私に語る処に依れば」とあるが、豊吉はmあるいは伊藤晴雨が自分を投影した架空の人物か?
- ある日、豊吉が急病になったので、楽屋に泊めることにした。豊吉は密かに長髪の女の鬘を道具部屋から持ち出し、それを抱いて寝る。
- 豊吉は吉原で交接不能になるのは、自分の包茎に原因すると思っている(ここも豊吉=伊藤晴雨を示唆する)。
- 豊吉は急遽代役で山田屋の娘を責める役をやってくれと、頭取の遠井万三郎から頼まれる。「此の頃の新派に女の責場がなけりや見物はきやしねえ、”十万円”にしろ”八重霞”にしろ娘をふん縛って責める場面がなきゃ山が上にねえや」と遠井が述べている。
- 芝居中、娘を助け来た牛若三次の振り回す刀の刃先が勃起していた男根に当たり怪我をする。怪我を堪えながら8日間の代役をこなす。
- 梅堂豊吉の父は五代目歌川豊國(五代目は無名)。歌川国芳の弟子。兄(兄弟子?)は棟堂小国政で雅号「柳蛙」。
- 梅堂豊吉の師匠、宮古紫郎は文学の素養があり、青年画家の小杉未腥がよく遊びに来ていた。
- 宮古紫郎は小杉未腥に梅堂豊吉に
第3回
- 伊藤晴雨『非小説 性液(三)』奇譚クラブ1954年(昭和29年)4月号, p130
- 宮崎幾之介:東京美術学校にモデルを斡旋する業者。下谷区谷中坂町90に住む。当時唯一のモデル斡旋業者なので画家に対して力を持っていた。岡倉天心の腹違いの弟であることも力をもっていた理由の1つ。
- 日本への洋画の輸入の最初としてワグマンの逸話を紹介。
- 裸体のモデルの最初は明治30年頃の黒田清輝ではないかと推測。
- 同じ頃の高橋広湖の『元寇の図』のこと。高橋広湖は松本楓湖の弟子。養母は吉原の名妓。『元寇の図』では「全裸体の美女が両手に縄を廻され」
- ここまでが枕で、大正時代でもいかにヌードモデルが大変だったかを語ろう、と話が始まる。
- 鈴木かねよ(=佐々木カネヨ)は秋田生まれで、田畑に住み東京美術学校に勤めていた。母は納豆売り。美人なので、藤島酒二もぞっこん。この藤島酒二は、藤島武二(1867-1943、明治から昭和前半まで日本の洋画壇において長らく指導的役割を果たしてきた重要な画家)の言い換えであろう。
- 「此おかねという女、別名を”嘘つきお兼”といつて・・・竹久夢二君にも貞操を捧げ・・盛んに学生を釣っていた」「山口蓬春(1893ー1971、日本画家)氏などは・・敬遠して居たのは流石に賢明」
- 「此女が縛られるのが大好きで・・戸張孤雁(1882-1927、版画家。洋風挿絵の先駆者)氏の許に通って縛られるモデルになって居た」「後には麻布六本木の某酒屋に嫁に行ったが、肺を病んで死んだ」「金銭に掛けては凄腕で嘘八百で巻き上げた金を貯めるのが何よりの楽しみ。」
- モデルから清元
第4回
- 伊藤晴雨『非小説 性液(四)』奇譚クラブ1954年(昭和29年)5月号
- 第2回からの続き。明治40年代の柳盛座での「主思い」の公演の模様。
- 泉鏡花の「三味線堀」(1910)は開盛座をモデルをしたと思われる。
- 「柳盛座の看板には女が縛られて居る」とある。
- 向柳原一丁目に柳盛座という小劇場があった。
- そこの役者板東和好が九代目市川団十郎に似ていたので「二銭団州」と呼ばれていた。
- 座頭は中村梅雀。その伜は前進座の中村翫右衛門。
- 昼は旧劇、夜は新派。
- 巻野憲次が座長で、此処でも盛んに女の責場の芝居が演ぜられた。
- 座附き作者は竹柴鶏三。後に松竹の新派の作者。
- 柳盛座と開盛座で俳優が交互に入れ替わりをやっていた。
- 豊吉も開盛座から柳盛座に移った山崎長之輔について柳盛座に出勤。山崎長之輔は後に大阪の角座に。
第5回
第6回
第7回
豊吉が勝沼に到着。
第8回
第9回
第10回
石原美都男:カフェーライオンにいた。女形。桜子を演ずる。逆さ吊りになる。
永井:脚本、舞台監督
尾竹々波:舞台装置
淀与四郎:床山
浅草には 富士館 三友館
第一景:上海、四馬路の街頭
第11回
第二景:四馬路の裏街、人肉市場の一室
竹波(尾竹々波):「どうも此絵は面白くないね」「女の責められる苦痛の表情がちっとも出て居ないじゃあないか、五九郎これや駄目だナァ」「先生のお弟子さんでよろしおますさかいに描いて頂けまへんやろか」「・・居ないよ」「そらどむならん・・・では長谷川一陽ちう看板屋・・・」「あいつなら白馬会にいて黒田清輝の弟子だ」
第四景:地下室の場。本水を落として中央のタンクへ水を張り、此中へ縛られた女を投げ込んで水責めにする」
市村:やまと新聞
曾我廼家五九郎の本名は武智
本郷座の高田実の用心棒をしている垣田源吾。壮士ああげりで村上浪六の小説「馬鹿野郎」のモデル。