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1952年(昭和27年)10月、『[[KK通信]]』<ref group="注">16ページ。半年分120円を前納すると「特別会員」としてKK通信を郵送してくる。また、[[奇譚クラブの読者座談会|読者座談会]] に出席できたり、会員相互の文通が可能だった。</ref>を発行(1955年まで)。 | 1952年(昭和27年)10月、『[[KK通信]]』<ref group="注">16ページ。半年分120円を前納すると「特別会員」としてKK通信を郵送してくる。また、[[奇譚クラブの読者座談会|読者座談会]] に出席できたり、会員相互の文通が可能だった。</ref>を発行(1955年まで)。 |
2011年10月12日 (水) 18:44時点における版
きたんくらぶ、1947年(昭和22年)10月ー1975年(昭和50年)3月
概要
『奇譚クラブ』は、1947年(昭和22年)10月[1][2][注 1]から1975年(昭和50年)3月までの28年の長期間(通刊325号)にわたって発刊されたアブノーマル雑誌で、戦後のSM文化に多大な影響を与えた。最初はカストリ雑誌の1つとして吉田稔により創刊されたが、やがて1948年(昭和23年)夏頃に編集に参画する須磨利之の影響で、1952年(昭和27年)春頃から責めや縛りを中心としたマニア雑誌へと変貌していく。須磨利之自身は1953年(昭和28年)6月号で奇譚クラブを去るが、その後も編集・発行人の吉田稔を核に、辻村隆、杉原虹児、塚本鉄三らの努力により30年近くにわたりマニア誌として出版を続ける。長田英吉、濡木痴夢男、志摩紫光、世田介一、長池士、明智伝鬼、千葉曳三、ダーティ工藤などの世代の緊縛師は、SMに興味をもったきっかけとして奇譚クラブとの出会いをあげている。団鬼六や沼正三は奇譚クラブで育った文筆家である。溝口健二、三島由紀夫、渋沢龍彦、寺山修司など奇譚クラブを愛読していたアーティストも多い。奇譚クラブのモデル達、奇譚クラブの別冊・増刊号、奇譚クラブの分譲写真、美しき縛しめ、奇譚クラブの読者座談会は別ページにまとめてある。
別名
発行年・出版社
1947年(昭和22年)10月〜1955年(昭和30年)9月、曙書房
1955年(昭和30年)10月〜1967年(昭和42年)、天星社
1967年(昭和42年)〜1975年(昭和50年)3月、暁出版
発行人・編集人
発行人は創刊から終刊まで吉田稔。
編集人は
吉田稔:1947年(昭和22年)10月〜1951年(昭和26年)11月
箕田京二:1951年(昭和26年)12月〜1968年(昭和43年)7 or 8月
杉原虹児:1968年(昭和43年)8 or 9月〜1975年(昭和50年)3月
歴史
カストリ雑誌時代の奇譚クラブ
『奇譚クラブ』は、1947年(昭和22年)10月25日にA5版のカストリ雑誌として大坂の曙書房から吉田稔によって創刊された。1年後には須磨利之や辻村隆が編集に加わるが、1952年(昭和27年)6月にB5版に変更になるまでの5年間は、基本的にはごく普通のカストリ雑誌や実話雑誌として発行されていた。詳細はカストリ雑誌時代の奇譚クラブのページ参照。
A5版曙書房時代
1952年(昭和27年)、5月・6月合併号からA5版に変更し、『戦争と性慾特輯号』『倒錯の告白』などSM路線を開始[2]。7月号には『裸婦肉体美写真実費分譲』の案内に「・・責められる女の美の極致」、8月号に『責め女の写真実費分譲』と出る。
1952年(昭和27年)夏、辻村隆が立花郁子を実験的に縛り[3]、次いで川端多奈子を本格的に縛る。
1952年(昭和27年)10月、『KK通信』[注 2]を発行(1955年まで)。
1953年(昭和28年)1月、伊藤晴雨が1月号に短文を寄稿し、その中で喜多玲子への想いを語っている[4]。
1953年(昭和28年)、6月号で須磨利之が離脱[注 3]。松井籟子の『淫火』の挿絵も7月号で喜多玲子から栗原伸に変わる。
1953年(昭和28年)11月号、濡木痴夢男の『悦虐の旅役者』が青山三枝吉のペンネームで採用。挿絵は都築峰子。
1953年(昭和28年)12月、『美しき縛しめ第一集』(曙書房)刊行。撮影は塚本鉄三、緊縛は須磨利之[注 4]。第二集は、緊縛が辻村隆。
1954年(昭和29年)、3月号が発売4日目で発禁処分。濡木痴夢男が真木不二夫で掲載した『魔性の姉妹』(都築峰子挿絵)の内容が問題となった。この号から掲載の始まった「読者案内欄」も当局から「売春案内である」と指摘され、5月号から消えている。
1955年(昭和30年)、5月号が摘発され、発禁処分。6月号〜9月号、12月号が休刊。
白表紙時代(天星社時代)
1955年(昭和30年)、発行元を天星社に変更して、10月号を出す[注 5]。11月号まで出して再び翌年3月まで休刊。1955年(昭和30年)10月号から1960年(昭和35年)5月号までを「白表紙時代」という。天星社時代は、さらに1967年(昭和42年)まで続く。
1956年(昭和31年)4ヶ月の休刊の後、4月号から復刊。11月号も休刊。
1958年(昭和33年)7月号に団鬼六の『お町の最後』が花巻京太郎の名で掲載。懸賞小説一位入選作品。
1960年(昭和35年)6月号よりカラー表紙に戻りグラビアも復活。
1960年(昭和35年)、吉田稔が濡木痴夢男に奇譚クラブの東京進出と編集長の打診[注 6][5]。
1962年(昭和37年)8・9月合併号より、団鬼六の『花と蛇』が花巻京太郎の名で掲載。連載2回目は11月号、3回目は12月号。ここで休載。
1963年(昭和38年)7月号より、『花と蛇』再開。花巻京太郎から団鬼六にペンネーム変更。
1964年(昭和39年)2月、『美しき縛しめ 第三集』発刊。
1964年(昭和39年)、11月号から辻村隆の「カメラハント」が連載開始(1973年まで)。
暁出版時代
1967年(昭和42年)、暁出版株式会社に組織替え。
1968年(昭和43年)8 or 9月 、編集人が箕田京二から杉原虹児に交代。
1968年(昭和43年)9月、「本誌自粛の徹底」をこれ以降の号、毎月に掲載し、当局の取り締まりを意識。
1974年(昭和49年)、3月号よりカラーグラビアが始まる。
1975年(昭和50年)3月号以降は発刊されず。
エピソード
- 曙書房:大阪府堺局区内菅原通4-30
- 天星社:大阪市阿倍野区晴明通1-85
- 暁出版:正式には暁出版株式会社。大阪市住吉区大領町4-68
- 曙書房時代の表紙などには、フランスのLa Vie Parisienne(ラ・ヴィ・パリジェンヌ)誌で活躍した、Chéri Herouard、George Leonnec、Joseph Kuhn-Regnier らの作品がに多数無断(おそらく)使用されている。これらは古本屋で吉田稔が須磨利之に勧められて購入したという印刷画の束[5]に由来するものと推察される[6]
- 辻村隆の「話の屑籠』奇譚クラブ1959年(昭和34年)11月号, p18には大判時代の寄稿者として、高村暢児、須磨利之、夏目千代の名を上げている。
- 溝口健二監督の書斎には、整然と奇譚クラブが書棚を埋めていた[7][8]。
参考資料
- ↑ 本木至『雑誌で読む戦後史』(1985, 新潮社)
- ↑ 2.0 2.1 高倉一『秘密の本棚Ⅰ:幻の雑誌1953~1964の記録』(1998, 徳間書店)
- ↑ 辻村隆『モデル女のまぞひずむ』奇譚クラブ1954年(昭和29年)10月号, p274
- ↑ 伊藤晴雨『女の責場を描く時の心境』奇譚クラブ1953年(昭和28年)1月号, p145
- ↑ 5.0 5.1 濡木痴夢男『「奇譚クラブ」の絵師たち』(河出書房新社, 2004)
- ↑ 「懐かしき奇譚クラブ」esme氏情報
- ↑ 辻村隆「話の屑籠」奇譚クラブ1956年(昭和31年)4月号, p144
- ↑ 辻村隆「話の屑籠』奇譚クラブ1959年(昭和34年)11月号, p117
注釈
- ↑ 木本至の『雑誌で読む戦後史』による。秋田昌美もこの日付を用いている。一方、高倉一の『秘密の本棚Ⅰ』の後書きによると、1946年(昭和21年)に不定期刊行物として最初に発行され、1951年(昭和26年)1月号から月刊誌化されたとある。
- ↑ 16ページ。半年分120円を前納すると「特別会員」としてKK通信を郵送してくる。また、読者座談会 に出席できたり、会員相互の文通が可能だった。
- ↑ 6月号に編集部謹告が出ている。
- ↑ 頒価500円
- ↑ この復刊第一号の表紙の写真は濡木の提供による。口絵の写真、本文の多くも濡木による(「奇譚クラブの絵師たち」より)。
- ↑ 返事は保留したが、その後吉田稔の方から、採算が採れないということで計画中止。