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*「私の家はむかしから武人の家柄だし、わたし自身も、心では画人ではなく武人なんです。その立場から家を愛し、国を愛し、天皇陛下を愛しているわけで、剣を執ってたたかう侍を描くことで、武人の精神と愛国の精神を少年たちに伝えようと考えていたわけです。」と述べているように『憂国の絵師』として評価されていた。
*「私の家はむかしから武人の家柄だし、わたし自身も、心では画人ではなく武人なんです。その立場から家を愛し、国を愛し、天皇陛下を愛しているわけで、剣を執ってたたかう侍を描くことで、武人の精神と愛国の精神を少年たちに伝えようと考えていたわけです。」と述べているように『憂国の絵師』として評価されていた。
*[[裏窓]]などに絵を描いていた[[石塚芳幸]]が私淑していた。
*[[裏窓]]などに絵を描いていた[[石塚芳幸]]が私淑していた。
*[[花輪和一]]が影響を受けた。


==代表作==
==代表作==

2011年6月11日 (土) 18:00時点における版

伊藤彦造 小説文庫オール実話 1949年(昭和24年)11月号より
伊藤彦造 吉川英治『萬花地獄』(1927)の挿絵。

いとう ひこぞう、1903年(明治36年)-2004年(平成16年)9月9日

概要

大正から昭和にかけて活躍した挿絵画家。美貌の剣士が活躍する冒険活劇で人気。剣豪、伊藤一刀斉の末裔に生まれ、自らも剣の師範。右田年英に風俗画を学び、京都大学で関保之助に有職故実を学ぶ。日本画家の橋本関雪に師事。硬質なタッチのペン画に特徴で、

別名

伊藤新樹[注 1]

略歴

1903年(明治36年)、大分県大分市に剣豪、伊藤一刀斉の末裔として生まれる。

東京朝日新聞の給仕となり勤務中に右田年英から風俗画を学ぶ。

1925年(大正14)1月、番匠谷英一『黎明』(東京朝日新聞)の挿絵でデビュー。

1925年(大正14)、行友李風『修羅八荒』(朝日新聞)の挿絵で地位を確立。

1927年(昭和2年)、高垣眸『豹の眼』、大佛次郎『角兵衛獅子』などの人気小説の挿絵。

京都大学に入学しで関保之助に有職故実を学ぶ。

結核の療養中に画家を目指し日本画家の橋本関雪に師事。

エピソード

  • 村田誠一戦前戦後の挿絵に現れた責め縛り繪奇譚クラブ 1953年(昭和28年)8月号, 口絵で紹介されている。
  • 「私の家はむかしから武人の家柄だし、わたし自身も、心では画人ではなく武人なんです。その立場から家を愛し、国を愛し、天皇陛下を愛しているわけで、剣を執ってたたかう侍を描くことで、武人の精神と愛国の精神を少年たちに伝えようと考えていたわけです。」と述べているように『憂国の絵師』として評価されていた。
  • 裏窓などに絵を描いていた石塚芳幸が私淑していた。
  • 花輪和一が影響を受けた。

代表作

引用文献

注釈

  1. 荒木大将こと荒木貞夫に心酔してつけた名前。

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