「吉田潤」の版間の差分

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==エピソード==
==エピソード==
*[[須磨利之]]が病気で倒れるまでは、[[SMセレクト]]の緊縛写真を、[[吉田潤]]、[[花沢正治]]がカメラマン、[[須磨利之]]が緊縛師で撮影していた<ref name="memo">[[濡木痴夢男仕事メモ]]</ref>。
*[[武いさを]]は[[吉田潤]]を父のように慕っていた。
*[[武いさを]]は[[吉田潤]]を父のように慕っていた。
*[[ユーモアグラフ]]1967年(昭和42年)4月号の[[吉田潤]]『'''カメラハンドブック ヌード・ポーズ 基本編'''』には、「美研出版」の広告が出ており、[[吉田潤]]が「[[美研出版]]」と関わっていたことを示唆する。
*[[ユーモアグラフ]]1967年(昭和42年)4月号の[[吉田潤]]『'''カメラハンドブック ヌード・ポーズ 基本編'''』には、「美研出版」の広告が出ており、[[吉田潤]]が「[[美研出版]]」と関わっていたことを示唆する。

2012年2月11日 (土) 10:56時点における版

よしだ じゅん1908年(明治41年)-2003(平成15年)


活動内容

戦前から戦後にわたり活躍した明治生まれの報道写真家。広島・長崎の被爆地、復興する銀座などの硬派写真と共に、「額縁ショー」など戦後と共に誕生した風俗に関する貴重な写真を残した。SMセレクトの初期カメラマンでもある。

別名

略歴

1933年(昭和8年)、天連に渡る。その後、奉天、北京と移り住み、写真家として活躍[1]

1936年(昭和11年)、ハンガリー・ブタペストでおこなわれた写真の元祖ダゲールを祝った写真100年祭で、ドイツのポール・ヴォルフ、フランスのフラッサイ氏らと共に金メダルを受賞[1]

1946年(昭和21年)5月、日本に引き揚げ[注 1][1]。林忠彦[注 2]と二人で写真事務所を開く。カストリ雑誌などの写真を撮る。

1946年(昭和21年)頃、サン写真新聞[注 3]の写真を撮影。

1951年(昭和26年)、「USカメラ年鑑1951年版」に中村立行「ヌード」、吉田潤「女流彫刻家」、天野竜一「ペンジュラム」が入賞掲載。

2006年(平成18年)3月6日ー3月18日、ヴァニラ画廊にて吉田潤写真展『花咲く昭和ストリップ

エピソード

代表作

引用文献

注釈

  1. 引き揚げに際し、現地で撮影した数万点の写真は全て焼却した(持ち出しが厳禁されていたので)。
  2. 1918年(大正7年)生まれ1990年(平成2年)没の写真家。戦中、北京で吉田潤と知り合う。
  3. 1946年(昭和21年)創刊の夕刊タブロイド新聞。毎日新聞系列。1960年(昭和35年)まで続く。その後の夕刊フジや日刊ゲンダイのさきがけ的存在。

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つながり

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