「猟奇」の版間の差分
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2011年4月21日 (木) 12:56時点における版
『猟奇』(りょうき)は、1946年(昭和21年)10月に創刊された代表的なカストリ雑誌の1つ。
概要
1946年(昭和21年)秋から1年に満たない間、わずか5号しか発刊されなかったが、第2号が摘発されるなど、その後のカストリ雑誌の方向性を決めることとなる重要な雑誌と位置づけられている。
発行年・出版社
1946年(昭和21年)10月15日[1]〜1947年(昭和22年)6月、茜書房
発行人・編集人
編集・発行人:加藤幸男
主な出来事
1946年(昭和21年)10月、創刊第1号発刊。
1946年(昭和21年)12月、第2号発刊。梅原北明『ペテン商法』が掲載。
1947年(昭和22年)1月9日、1946年(昭和21年)12月号(通巻2号)が公然わいせつ罪で摘発。対象は北川千代三の「H大佐夫人」と宮永志津夫「王朝の好色と滑稽譚」[注 1][2][1]。
1947年(昭和22年)1月、第3号発刊。
1947年(昭和22年)5月、第4号発刊。ヌード写真風挿絵が表紙。伊藤晴雨の『虐げられたる日本婦人』、斎藤昌三『げて本談義』など。
1947年(昭和22年)6月、第5号発刊。「廃刊決定」が述べられている[1]。
エピソード
- 創刊号は50ページで10円[1]。
- エロを論じるに当たり、民族的知識を披露しながら展開するといった、戦前の『犯罪科学』『グロテスク』の手法を踏襲し、その後のカストリ雑誌のプロトタイプを作った[1]。
- 廃刊後、『人人』『猟奇(大阪)』へとつながる。
- 『オール猟奇』『猟奇ゼミナール』『猟奇読物』などの猟奇ブームを生む。
引用文献
注釈
- ↑ 発禁号は闇市で200円で取引されていた。