「滝麗子」の版間の差分

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*佐保忍(作)・[[滝麗子|淹れい子]](画)『'''風流いろは草紙'''』[[奇譚クラブ]]1961年(昭和36年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196101/01/005.html グラビア]
*佐保忍(作)・[[滝麗子|淹れい子]](画)『'''風流いろは草紙'''』[[奇譚クラブ]]1961年(昭和36年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196101/01/005.html グラビア]
*[[松井籟子]]『'''妖花'''』[[奇譚クラブ]][[奇譚クラブ]]1961年(昭和36年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196101/02/107.html p116]の挿絵。[[滝麗子|瀧れい子]]名。
*[[松井籟子]]『'''妖花'''』[[奇譚クラブ]][[奇譚クラブ]]1961年(昭和36年)1月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1960/196101/02/107.html p116]の挿絵。[[滝麗子|瀧れい子]]名。
==ギャラリー==
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画像:takireiko.jpg|[[滝麗子]]『'''股間縛りの繩の掛け方'''』[[奇譚クラブ]] 1954年(昭和29年)1月号より。
画像:takireiko2.jpg|[[滝麗子]]『'''サーカス責め'''』[[奇譚クラブ]] 1954年(昭和29年)4月号より。
画像:takireiko03.png||[[瀧麗子]]『'''当世異色責め十態'''』[[奇譚クラブ]] 1954年(昭和29年)12月号より。
</gallery>


===画集===
===画集===
*[[滝麗子|三條春彦]]『'''画帖 時代物責繪巻'''』の販売予告が[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)8月号 [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195308/02/172.html p177]、広告が10月号[http://nawa-art.com/backnumber/1950/195310/01/002.html 口絵]に出ている。
*[[滝麗子|三條春彦]]『'''画帖 時代物責繪巻'''』の販売予告が[[奇譚クラブ]]1953年(昭和28年)8月号 [http://nawa-art.com/backnumber/1950/195308/02/172.html p177]、広告が10月号[http://nawa-art.com/backnumber/1950/195310/01/002.html 口絵]に出ている。
== 引用文献==
== 引用文献==
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2023年5月25日 (木) 12:02時点における最新版

滝麗子股間縛りの繩の掛け方奇譚クラブ 1954年(昭和29年)1月号より
滝麗子サーカス責め奇譚クラブ 1954年(昭和29年)4月号より

たき れいこ。 画家柴谷宰二郎の変名。1948年(昭和23年)の奇譚クラブに本名で登場。須磨利之が去った後、しばらく奇譚クラブの中心絵師。栗原伸三条春彦等の変名。

概要

絵師。須磨利之の先輩にあたる日本画家柴谷宰二郎の変名。1948年(昭和23年)10月発行の奇譚クラブ柴谷宰二郎の名で須磨利之と共に登場。1949年(昭和24年)の後半までいくつかの変名も使いながら絵を描いていた。やがて、須磨利之がほぼ独占的に奇譚クラブの絵を担当するが、1953年(昭和28年)春頃に、須磨利之曙書房を離脱すると共に、再び、滝麗子三条春彦栗原伸方金三などの変名で登場し、1960年代前半まで奇譚クラブの中心絵師として活躍。

別名

柴谷宰二郎(本名)、司馬湲、滝れい子、淹れい子、三条春彦、三條春彦、栗原伸方金三、瀧麗子,絵のサインは『れ』『麗』『kata』

略歴

1948年(昭和23年)10月15日、奇譚クラブ通巻第9号の邦枝完二『圍い者』の挿絵に柴谷宰二郎の名で登場。この号から須磨利之も登場。

1949年(昭和24年)1月5日、奇譚クラブ通巻第10号に司馬湲の名で挿絵を。

1949年(昭和24年)8月20日、兵庫県芦屋市の広報誌「あしや」の表紙やカットなどを創刊号から描きだし、1950年(昭和25年)12月号まで続く[1]

1949年(昭和24年)9月15日、奇譚クラブ第3巻第8号。少なくともこの号までは挿絵を須磨利之と共に描いていた。

1950年(昭和25年)2月、兵庫県芦屋市の広報誌「あしや」の表紙を描き始める。

1953年(昭和28年)、6月号で須磨利之が離脱。柴谷宰二郎が再び奇譚クラブに登場し、しばらく中心絵師となる。

エピソード

  • 奇譚クラブの編集長吉田稔喜多玲子の抜けた穴をうめるべく、既に三条春彦の名で奇譚クラブに登場していた柴谷に、似た名前の滝れい子をつけた。
  • 芦屋市の広報誌を手伝っていることから、芦屋市に住んでいたのかも知れない。

作品

雑誌

ギャラリー

画集

引用文献

注釈

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