「岩佐又兵衛」の版間の差分
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'''いわさ またべえ'''、1578年(天正6年)-1650年(慶安3年)6月22日。江戸初期(17世紀初)の絵師。織田信長に仕えていた荒木村重の子。「'''浮世絵の祖'''」とも称される。『'''浄瑠璃物語絵巻'''』には捕縄風に縛られ簀巻き死罪の場面が。 | '''いわさ またべえ(い)'''、1578年(天正6年)-1650年(慶安3年)6月22日。江戸初期(17世紀初)の絵師。織田信長に仕えていた荒木村重の子。「'''浮世絵の祖'''」とも称される。『'''浄瑠璃物語絵巻'''』には捕縄風に縛られ簀巻き死罪の場面が。 | ||
==概要== | ==概要== | ||
江戸時代初期の絵師。浮世絵の祖とも称される<ref group="注">一般的には[[菱川師宣]]を「浮世絵の祖」と呼ぶ場合が多い。</ref>。 | |||
==別名== | ==別名== | ||
浮世又兵衛、岩佐又兵衛勝以(かつもち)、吃の又平 | 浮世又兵衛、岩佐又兵衛勝以(かつもち)、吃の又平 | ||
==略歴== | ==略歴== | ||
1578年(天正6年) | 1578年(天正6年)、織田信長に仕えていた荒木村重<ref group="注">織田信長に気に入られ1573年に茨木城主となる。1574年には伊丹城を落とし、伊丹城主となり摂津一国を任される。1578年に突如、信長に対して反旗。信長の刺客をかわし毛利氏に亡命。信長の死と共に堺に移り茶人として復帰し、千利休らと親交。秀吉からの処刑を恐れ出家して荒木道薫となる。子孫の荒木夢仁斎源秀縄は荒木流拳法、捕手術を中心とした総合武術の創始者。</ref>の子、あるいは孫として生まれる<ref name="yadai">矢代勝也『'''[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4808709759/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4808709759&linkCode=as2&tag=iq05-22 岩佐又兵衛作品集―MOA美術館所蔵全作品]'''』(東京美術, 2013.10.1)</ref>。 | ||
1578年(天正6年)、荒木村重は織田信長に謀反。 | 1578年(天正6年)、荒木村重は織田信長に謀反。 | ||
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2014年12月16日 (火) 08:29時点における最新版
いわさ またべえ(い)、1578年(天正6年)-1650年(慶安3年)6月22日。江戸初期(17世紀初)の絵師。織田信長に仕えていた荒木村重の子。「浮世絵の祖」とも称される。『浄瑠璃物語絵巻』には捕縄風に縛られ簀巻き死罪の場面が。
概要
江戸時代初期の絵師。浮世絵の祖とも称される[注 1]。
別名
浮世又兵衛、岩佐又兵衛勝以(かつもち)、吃の又平
略歴
1578年(天正6年)、織田信長に仕えていた荒木村重[注 2]の子、あるいは孫として生まれる[1]。
1578年(天正6年)、荒木村重は織田信長に謀反。
1580年(天正8年)頃、京師西本願寺に庇護され、母方の岩佐姓を名乗る[1]。
1578年(天正15年)頃、豊臣秀吉が主催した北野大茶会を見る[1]。
成人後、織田信雄に仕える[1]。
二条昭実の御所に出入りし、幅広い教養を身につける[1]。
狩野内膳に絵を習う。土佐派の絵師からも習う[1]。
京都時代から既に「工房」をもち、複数の絵師で分担作業。
1615年頃、京都から福井に移る。藩主松平忠直の文化人招聘の一貫[1]。
福井在住時に『山中常磐物語絵巻』『浄瑠璃物語絵巻』を制作。
1637年(寛永14年)、徳川家光の娘の婚礼調度制作のために江戸に移る。妻子は福井に残る[1]。
江戸在住時に『堀江物語絵巻』を制作。
1650年(慶安3年)6月22日、江戸で永眠。
エピソード
- ダイナミックな人物表現が特徴。
- 歌舞伎・文楽の『傾城反魂香』[注 3]の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデル。片岡仁左衛門のお家芸「片岡十二集」の一つ。
- 岡田茂吉により戦後蒐集された。
- 「浮世絵をつくった男」「浮世絵の源流」「浮世絵の祖」などと呼ばれる。
- 「劇画の開祖」とも称される。
代表作
- 『山中常磐物語絵巻』
- 『浄瑠璃物語絵巻』
- 『堀江物語絵巻』
作品集
矢代勝也『岩佐又兵衛作品集―MOA美術館所蔵全作品』(東京美術, 2013.10.1)