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2014年5月5日 (月) 21:26時点における版

滝麗子 奇譚クラブ 1954年(昭和29年)1月号より

たき れいこ、19ss年(昭和x年) -

概要

絵師。須磨利之の先輩にあたる日本画家柴谷宰二郎の変名。1948年(昭和23年)10月発行の奇譚クラブ柴谷宰二郎の名で須磨利之と共に登場。1949年(昭和24年)の後半までいくつかの変名も使いながら絵を描いていた。やがて、須磨利之がほぼ独占的に奇譚クラブの絵を担当するが、1953年(昭和28年)春頃に、須磨利之曙書房を離脱すると共に、再び、滝麗子三条春彦栗原伸方金三などの変名で登場し、1960年代前半まで奇譚クラブの中心絵師として活躍。

別名

柴谷宰二郎(本名)、司馬湲、滝れい子、淹れい子、三条春彦、三條春彦、栗原伸方金三、瀧麗子,絵のサインは『れ』『麗』『kata』

略歴

1948年(昭和23年)10月15日、奇譚クラブ通巻第9号の邦枝完二『圍い者』の挿絵に柴谷宰二郎の名で登場。この号から須磨利之も登場。

1949年(昭和24年)1月5日、奇譚クラブ通巻第10号に司馬湲の名で挿絵を。

1949年(昭和24年)8月20日、兵庫県芦屋市の広報誌「あしや」の表紙やカットなどを創刊号から描きだし、1950年(昭和25年)12月号まで続く[1]

1949年(昭和24年)9月15日、奇譚クラブ第3巻第8号。少なくともこの号までは挿絵を須磨利之と共に描いていた。

1950年(昭和25年)2月、兵庫県芦屋市の広報誌「あしや」の表紙を描き始める。

1953年(昭和28年)、6月号で須磨利之が離脱。柴谷宰二郎が再び奇譚クラブに登場し、しばらく中心絵師となる。

エピソード

  • 奇譚クラブの編集長吉田稔喜多玲子の抜けた穴をうめるべく、既に三条春彦の名で奇譚クラブに登場していた柴谷に、似た名前の滝れい子をつけた。
  • 芦屋市の広報誌を手伝っていることから、芦屋市に住んでいたのかも知れない。

作品

雑誌

画集

引用文献

注釈

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つながり