「サンアンドムーン」の版間の差分

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『'''サンアンドムーン'''』(さんあんどむーん)は、SM雑誌である。
[[画像:SUNANDMOON4.jpg|250px|thumbnail|[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)2月創刊号。[[マントピア]]の増刊号として。]]
[[画像:SUNANDMOON5.jpg|150px|thumbnail|[[山本一章]]『'''[[カメラルポ]] 「この女を」広田麗子のこと(一)'''』[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)2月創刊号より。]]
[[画像:SUNANDMOON2.jpg|150px|thumbnail|[[山本武男]]の鎖縛り。[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)3月号より。]]
'''さんあんどむーん'''、1978年(昭和53年)2月に「[[SUN&MOON]]」を引き継ぐ形で[[絃映社]]から創刊。核となる[[世田介一]]はまもなく離脱し[[浦戸宏]]が同年末まで発行し「[[えすとえむ]]」に続く。[[山本一章]]、[[ロマン派生]]他のマニアからの寄稿。


== 概要 ==
== 概要 ==
1978年(昭和53年)2月25日付けでマントピア増刊2月号として発刊。発行人[[浦戸宏]]。発行所[[絃映社]]。企画日月舎:[[世田介一]][[山本一章]]の「カメラルポ」、[[ロマン派生]]の「私のプレイテクニック」がある。
1977年(昭和52年)3月に[[エド・プロダクツ]]から創刊された[[SUN&MOON]]を引き継ぐ形で、1978年(昭和53年)2月25日に創刊されたA5サイズのSM雑誌。発行所は[[絃映社]]、発行人は[[浦戸宏]]と変わるが、企画は[[日月舎]]のままで、[[世田介一]]の雑誌であることが分かる。既に[[絃映社]]から発行されていた[[マントピア]]の増刊号という形で発行された。[[山本一章]]の「カメラルポ」、[[ロマン派生]]の「私のプレイテクニック」が掲載された。創刊後まもなく、[[世田介一]]は離脱し[[スペシャリーS&M]]を創刊。[[サンアンドムーン]]は1979年(昭和54年)から[[えすとえむ]]に誌名変更。


==別名==
サン・アンド・ムーン
== 発行年・出版社==
== 発行年・出版社==
[[]]
1978年(昭和53年)2月〜12月、[[絃映社]]
 
== 発行人・編集人==
== 発行人・編集人==
[[浦戸宏]]
== 主な出来事==
1978年(昭和53年)2月25日、前年の12月発行、[[SUN&MOON]]第6号を引き継ぐ形、マントピア・増刊2月号・通巻5号で[[サンアンドムーン]]創刊。[[山本一章]]の「カメラルポ」、[[ロマン派生]]の「私のプレイテクニック」などが掲載。


== 主な出来事==
1978年(昭和53年)3月25日、3月号(通算7号)。編集後記に「読者から[[サンアンドムーン]]で用いられている写真と同じものが[[司書房]]の[[別冊SMファン]]と同じだと指摘されたが、これははっきりしておかないといけないと」編集後記。トラブルを示唆。[[世田介一]]がこの号を最後に離脱し、6月に[[スペシャリーS&M]]を創刊。
 
1978年(昭和53年)5月25日、5月号増刊号(通算11号)。「[[マントピア]]増刊」とある。
:[[山本一章]]『'''カメラルポ「この女を」[[谷山久美子]]のこと(三)'''』
 
1978年(昭和53年)6月25日、6月号。第1巻5号。
:独自の雑誌コード(4181-6)を獲得し、[[マントピア]]増刊ではなくなる。
 
1978年(昭和53年)12月25日、終刊号。発行所は[[絃映社]]ではなく岬書房内[[白竜社]]となっている。[[山本一章]]、[[ロマン派生]]など<ref group="注">「9月に[[絃映社]]が倒産」と書いてある。</ref>。
 
1979年(昭和54年)、[[えすとえむ]]と改題して、引き続き[[浦戸宏]]が編集。


1981年(昭和56年)4月25日、[[えすとえむ]]第28号で休刊。


== エピソード==
== エピソード==
*[[ロマン派生]]『沢田多恵の青春彷徨』[[復刊奇譚クラブ]]1982年(昭和57年)4月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1980/198204/02/104.html p104]に[[絃映社]]とビニ本のことが書かれている。
*[[ロマン派生]]『沢田多恵の青春彷徨』[[復刊奇譚クラブ]]1982年(昭和57年)4月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1980/198204/02/104.html p104]に[[絃映社]]とビニ本のことが書かれている。
*『'''IMAGE No.1'''』([[エドプロダクツ]], 不明)(編集後記:[[浦戸宏]])
*『'''IMAGE No.2'''』([[エドプロダクツ]], 不明)([[サンアンドムーン]]姉妹グラフ誌)
==表紙==
<gallery>
画像:SUNANDMOON4.jpg||[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)2月創刊号。
画像:SUNANDMOON1.jpg||[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)3月号。
画像:SUNANDMOON04.jpg||[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)4月号。
画像:SUNANDMOON05.jpg||[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)5月号。
画像:SUNANDMOON.jpg||[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)6月号。
画像:SUNANDMOON09.jpg||[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)9月号。
画像:SUNANDMOON12.jpg||[[サンアンドムーン]] 1978年(昭和53年)12月終刊号。
</gallery>


== 脚注==
== 引用文献==
 
<references/>
 
==注釈==
<references group="注"/>
== お役たちweb==
== お役たちweb==


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[[Category:雑誌]]
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サンアンドムーン 1978年(昭和53年)2月創刊号。マントピアの増刊号として。
山本一章カメラルポ 「この女を」広田麗子のこと(一)サンアンドムーン 1978年(昭和53年)2月創刊号より。
山本武男の鎖縛り。サンアンドムーン 1978年(昭和53年)3月号より。

さんあんどむーん、1978年(昭和53年)2月に「SUN&MOON」を引き継ぐ形で絃映社から創刊。核となる世田介一はまもなく離脱し浦戸宏が同年末まで発行し「えすとえむ」に続く。山本一章ロマン派生他のマニアからの寄稿。

概要

1977年(昭和52年)3月にエド・プロダクツから創刊されたSUN&MOONを引き継ぐ形で、1978年(昭和53年)2月25日に創刊されたA5サイズのSM雑誌。発行所は絃映社、発行人は浦戸宏と変わるが、企画は日月舎のままで、世田介一の雑誌であることが分かる。既に絃映社から発行されていたマントピアの増刊号という形で発行された。山本一章の「カメラルポ」、ロマン派生の「私のプレイテクニック」が掲載された。創刊後まもなく、世田介一は離脱しスペシャリーS&Mを創刊。サンアンドムーンは1979年(昭和54年)からえすとえむに誌名変更。

別名

サン・アンド・ムーン

発行年・出版社

1978年(昭和53年)2月〜12月、絃映社

発行人・編集人

浦戸宏

主な出来事

1978年(昭和53年)2月25日、前年の12月発行、SUN&MOON第6号を引き継ぐ形、マントピア・増刊2月号・通巻5号でサンアンドムーン創刊。山本一章の「カメラルポ」、ロマン派生の「私のプレイテクニック」などが掲載。

1978年(昭和53年)3月25日、3月号(通算7号)。編集後記に「読者からサンアンドムーンで用いられている写真と同じものが司書房別冊SMファンと同じだと指摘されたが、これははっきりしておかないといけないと」編集後記。トラブルを示唆。世田介一がこの号を最後に離脱し、6月にスペシャリーS&Mを創刊。

1978年(昭和53年)5月25日、5月号増刊号(通算11号)。「マントピア増刊」とある。

山本一章カメラルポ「この女を」谷山久美子のこと(三)

1978年(昭和53年)6月25日、6月号。第1巻5号。

独自の雑誌コード(4181-6)を獲得し、マントピア増刊ではなくなる。

1978年(昭和53年)12月25日、終刊号。発行所は絃映社ではなく岬書房内白竜社となっている。山本一章ロマン派生など[注 1]

1979年(昭和54年)、えすとえむと改題して、引き続き浦戸宏が編集。

1981年(昭和56年)4月25日、えすとえむ第28号で休刊。

エピソード

表紙

引用文献

注釈

  1. 「9月に絃映社が倒産」と書いてある。

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