中村座

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概要

江戸時代の江戸三座のひとつである中村座と、戦後に伊藤晴雨が活動拠点としていた小劇場がある。

江戸三座のひとつの中村座

1624年(寛永元年)に江戸歌舞伎と共に生まれた芝居小屋で現在の京橋あたりに誕生。当初猿若座と呼んでいたが、中村座と改称。日本橋堀留町2丁目、日本橋人形町3丁目と移転し、天保の改革によって浅草聖天町(現・台東区浅草6丁目)へ移転。

1884年(明治17年)11月、中村座が浅草聖天町から浅草西鳥越町(現・台東区鳥越1丁目)へ移転。

1891年(明治24年)6月、川上音二郎の「板垣君遭難実記」と「監獄写真鏡」が大成功。

1893年(明治26年)1月、火災で焼失

戦後の中村座

概要

伊藤晴雨の4度目の劇団「責めの劇団」が活動拠点とした文京区本郷片町にあった小劇場。同劇場で「責めの劇団」の第2回公演が行われている[1]

別名

所在地

東京都文京区東片町下在

歴史

1953年(昭和28年)、伊藤晴雨の友人が新築。ここを活動拠点として伊藤晴雨の4度目の劇団「責めの劇団」が結成される[1]

1953年(昭和28年)6月4日、「責めの劇団」の第1回公演が市川鈴本でおこなわれる[注 1][1]

1953年(昭和28年)7月11日、「責めの劇団」の第2回公演を中村座でおこなう[注 2][2][注 3][1]

エピソード

  • 日野風子中村座でおこなわれた『実説番町皿屋敷』公演に招かれ、伊藤晴雨による舞台稽古から鑑賞している。女優は「福寿美鈴代[注 4](ふくすみ すすよ?)」とある[3]伊藤晴雨が70才の年とあるので、あるいは第2回公演なのかもしれない。
  • 「間口五間奥行三間定員百五十人の小劇場」[1]。あるいは「五百人程度(ギシギシに詰めて)の小劇場にて間口五間、奥行三間、高さ十一尺」[2]
  • 1953年(昭和28年)8月にも第二日曜日に中村座で「横浜奇聞新白石噺」を公演すると書いている[2]
  • 「次回(8月)から五百円とする」「会場で撮影し尤も舞台写真カビネ版五枚をその中に含めて平均に会員に配布することに決定」「登場人物は及ぶだけ少数にして、責めの時間を多く」とある[2]

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 伊藤晴雨其の頃を語る(五) 責め場の舞台装置法奇譚クラブ1953年(昭和28年)10月号, p169
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 KK通信1953年(昭和28年)10月1日第13号
  3. 日野風子『責めの美学』異端文藝1974年(昭和49年)7月15日

注釈

  1. 濡木痴夢男はこの公演を観ていると「奇譚クラブの絵師たち」と書いている。それによると演目は鈴木泉三郎脚本の『火あぶり』(これは晴雨がモデルで空気座が東横デパートの劇場で上演したある。ただし、伊藤晴雨の記録では「三〇余名の会員を前にして「雪責めの女」を上演」とある。
  2. 演目は「番町皿屋敷青山鉄山館の場」と林家正蔵の人情咄」「江戸川乱歩、村上元三、長谷川伸などの会員が来場」、とある。入場料300円。
  3. おそらくその後、「番町皿屋敷青山鉄山邸に上場し会員組織を以て興行した」とある。
  4. 同じ文中に福寿美「鈴江」とも書いている。

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