SMビデオの歴史

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AV。藤木TDCによる定義[1]を借りると「ビデオ撮りしたオリジナルポルノ映像で、劇場公開されるポルノ映画とは別ルートの流通で販売される合法作品。現在ではDVDやインターネット配信も含む。

歴史

1964年(昭和39年)、ソニーが家庭用白黒VTR機を販売[1]

1969年(昭和44年)、ソニー、松下、ビクターがビデオカセットの「U規格」発表。70年代にはラブホテルがこぞってU規格のVTRを設置し、ポルノ映像を流す[1]

1970年(昭和45年)、日活がVTR室を設置。東映もこれに続く[1]

1970年(昭和45年)、ヘラルド映画とミリオン映画がビデオ会社「ジャパン・ビコッテ」を設立[1]

1971年(昭和46年)8月、日活がラブホテル用「U規格」のポルノ作品を代々木忠などピンク映画系製作会社に発注し月産4作品で発表[注 1][1]

1972年(昭和47年)1月、代々木忠演出の日活作品「火曜日の狂楽」「ワイルドパーティ」が摘発[1]。その後、ロマンポルノも摘発される。

1972年(昭和47年)2月16日、日活、東映、ジャパン・ビコッテが「成人ビデオ倫理自主規制懇談会」(後の「日本ビデオ倫理協会」)設立[1]

1972年(昭和47年)、日活、東映、ジャパン・ビコッテはビデオ化専用の映画の製作を中止し、映倫で審査済みの劇場公開作品のみをビデオ化する方針を決定[1]

1975年(昭和50年)、「ベータマックス」規格が登場。

1976年(昭和51年)、「VHS」規格が登場。

1979年(昭和54年)、方担ぎ型カメラとポータブルVTRが登場[1]

1981年(昭和56年)5月、日本ビデオ映像から「ビニ本の女・秘奥覗き」「OLワレメ白書・熟した秘園」が発売[注 2][1]

1981年(昭和56年)7月、日活が「生撮りシリーズ」を発表。

1981年(昭和56年)、スタジオ418アテナ映像が発足。

1982年(昭和57年)8月、日本初[2]キネコ作品、『華麗なる愛の遍歴 愛染恭子』(ジョイパック・フィルム)が代々木忠により製作。

1982年(昭和57年)11月、代々木忠の『THE ONANIE』(ミリオン)が公開。

1985年(昭和60年)、日活初のキネコ作品箱の中の女』が公開され、ロマンXシリーズが始まる。

1985年(昭和60年)、伊集院剛キネコ作品ザ・折檻』シリーズが劇場公開。

1986年(昭和61年)、高槻彰キネコ作品ザ・本番』シリーズが劇場公開。

1996年(平成8年)、DVDが登場し、次第にビデオの座を奪っていく。

2002年(平成14年)、ソニーがベータマックスVTRの生産中止を発表。

2012年(平成24年)、パナソニックがVHSビデオデッキ生産終了を発表。

トピック

  • 1983年には90社のビデオメーカーが存在していた[1]

引用文献

  1. 1.00 1.01 1.02 1.03 1.04 1.05 1.06 1.07 1.08 1.09 1.10 1.11 藤木TDC『アダルトビデオ革命史』(幻冬舎, 2009)
  2. YOYOCHU Sexと代々木忠の世界』(ゴールド・ビュー, 2010)の映画パンフレッドより

注釈

  1. 、この段階ではまだビデオカメラではなく、機動性に優れていた16mmカメラが用いられていた。1本の制作費が65-70万円しかなく、この低予算が代々木忠の「ドキュメント」手法につながっていく
  2. ビデオ撮りだが脚本がありカット割りの撮影による映画仕立て

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