辻村隆

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中島貞夫監督『セックスドキュメント 性倒錯の世界]』(東映, 1971.10.14) の中での団鬼六辻村隆の対談。

つじむら たかし、1921年(大正10年)10月-1987年(昭和62年)。1940年代末から奇譚クラブのほぼ全期にわたり活躍した緊縛師・文筆家。近代的な日本式緊縛術を確立した人物の一人。1960年代の連載『カメラハント』は、実践としてのSMを広めるのに貢献した。

概要

緊縛師。文筆家。近代的な日本式緊縛術を確立した人物の一人。奇譚クラブのほぼ全期にわたり活躍した緊縛師。奇譚クラブへの登場は、須磨利之とほぼ同時期と思われ、1948年(昭和23年)10月15日通巻第9号には、信土寒郎の名で埋め草的な文を書いている。1949年(昭和24年)に入ると信土寒郎の名で奇譚クラブへ連載小説を掲載し始め、1950年(昭和25年)には緑猛比古の変名も登場する。辻村隆の名が登場するのはおそらく1951年(昭和26年)からで、この年の夏頃から、グラビア撮影にも関わりだしたようである。1952年(昭和27年)には、立花郁子川端多奈子といった初期の奇譚クラブのモデルを縛りだしている。須磨利之が抜けた1953年(昭和28年)夏以降、奇譚クラブの緊縛グラフの中心的緊縛師となる。初期の縛りには捕縄術などの古典的緊縛法を真似たものが見られるが、次第にSMプレイに特化した、近代的な緊縛法へと進化していく。1955年(昭和30年)から連載された『緊縛モデルの素顔』、および1964年(昭和39年)末からの連載である『カメラハント』は、多くの読者の支持を得、「実践としてのSM緊縛」のスタイルを確立した。1968年(昭和43年)に入ると、石井輝男監督『徳川女刑罰史』他の緊縛指導師としてマスコミへの露出を強め、団鬼六と共に、1960年代後半から1970年代初めのSMブームの推進役となった。70年代後半に入ると、持病の糖尿病が思わしくなく、次第に表舞台から遠ざかっていった。

別名

Takashi Tsujimura、綠猛比古、緑猛比古、信土寒郎

略歴

1921年(大正10年)[注 1]10月、堺市に生まれる。

1920年代、小学校3,4年の頃、泥棒ごっこで木に縛り付けられることに奇妙な快感を覚える[1]

1937年(昭和12年)頃、満州に渡る。前夜、当時の恋人(後の夫人)を縛ったのが初めての緊縛経験[1]

1944年(昭和19年)、招集でウェーキ島(大鳥島)に駐屯[2]

1940年代、戦後、レビュー劇団の「ロマン座」に関わり、第一回作「椿姫」(大阪・大劇)を東京の白山恵男に演出を頼み、そのいいつけで、浅草松竹の浅井挙嘩宅に楽譜を取りにいったとある[3]

1948年(昭和23年)、復員して金物屋を始めた頃に奇譚クラブを知り、信土寒郎の名で投稿した作品が採用。

1948年(昭和23年)10月15日、奇譚クラブ『爽秋讀切傑作號』通巻第9号に信土寒郎の名前であちこちにコメントのような文が掲載されている。

1949年(昭和24年)2月25日、奇譚クラブ通巻第10号に信土寒郎『二十の扉異聞』発表。

1949年(昭和24年)7月5日、奇譚クラブ第3巻第7号に信土寒郎『奇譚百話 都会の溜息』(挿絵:明石三平)。

1951年(昭和26年)、奇譚クラブ1月号に辻村隆の名で執筆。

1951年(昭和26年)7月、ヌード写真の撮影。奇譚クラブ1952年の1月号に掲載されている[4]

1952年(昭和27年)夏、立花郁子を実験的に縛り[4]、次いで川端多奈子を本格的に縛る[注 2]川端多奈子をモデルに逆さ吊りを。

須磨利之による辻村隆似顔絵。奇譚クラブ 1953年(昭和28年)1月号より

1953年(昭和28年)、奇譚クラブ1月号, p100読者座談会 交悦に伴う責めの衝動心理』の司会。

1953年(昭和28年)、奇譚クラブ4月号、5月号に構成:辻村隆、撮影:塚本鉄三の写真が。

1964年(昭和29年)、奇譚クラブ10月号, グラビアに「変形後手縛り」としてJohn Willieに影響されたと思われる縛りが紹介[注 3]

1956年(昭和31年)、奇譚クラブ4月号から『話の屑籠』連載開始。1960年(昭和35年)1月号まで続く。

1958年(昭和33年)、賀山茂と出会う[5]

1963年(昭和38年)、吉田稔に連れられ三崎の団鬼六を訪問。『花と蛇』の続きを書くことを説得[6]

1964年(昭和39年)、奇譚クラブ5月号から『サロン我楽記」を連載開始[注 4]。1973年(昭和48年)3月号まで105回続く。

1964年(昭和39年)、奇譚クラブ11月号から『カメラハント』連載開始。1973年(昭和48年)3月号まで続く。

1964年(昭和39年)、奇譚クラブ12月号, p170『「奇譚三十九夜物語」完成記念 ”わが体験を語る"座談会』。辻村隆が文責で、塚本鉄三、四馬孝、箕田京二と六人の愛読者。8月に開催。

1965年(昭和40年)5月、糖尿病を発病し[7]、8月まで休養。

1966年(昭和41年)頃、大阪で、伊吹真佐子芳野眉美辻村隆の3人でプレイ[8]

1968年(昭和43年)、石井輝男監督『徳川女刑罰史』(東映)で緊縛指導。その様子は[9]に詳しい。団鬼六が天尾完次に紹介[10]

1968年(昭和43年)9月24日、11PMに出演[注 5][11]。28日封切りの『徳川女刑罰史』のプロモーション。

1969年(昭和44年)、石井輝男監督『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』(東映)で緊縛指導。自らも木樵役で出演。続いて同じく石井監督の『徳川いれずみ師 責め地獄』で緊縛指導。

1969年(昭和44年)10月28日、ローズ秋山福田和彦と11PM「サド侯爵もびっくり」に出演[12]

1970年(昭和45年)10月、篠田正浩『沈黙』での緊縛シーンに関して助言[注 6]

1971年(昭和46年)3月、台湾にてSMハント[注 7]

1971年(昭和46年)、「週刊サンケイ」で田中陽造のインタビューを受ける[注 8]

1971年(昭和46年)10月、中島貞夫監督『性倒錯の世界』(東映)[注 9]に出演。鈴木則文監督『温泉みみず芸者』に役人役で出演。

1971年(昭和46年)10月14日、フジテレビ「小川宏ショウ」に出演し丸山明宏の「紫のコーナー」で「最近の奥様族のSMの生態について」を喋る[13][14]

1972年(昭和47年)8月、団鬼六SMキングに創刊号から『艶魔帖』シリーズを連載。

1973年(昭和48年)3月号、『SMカメラ・ハント』『サロン我楽記」連載終了[注 10]

1973年(昭和48年)、SMキング7月増刊号で特集「縄師 辻村隆」

1974年(昭和49年)、SMキングに連載していた『艶魔帖』シリーズが5月号で途絶える。

1974年(昭和49年)4月、奇譚クラブ8月号, p236に『我楽多控』で久しぶりに箕田氏と東京のK氏とで伊豆旅行をし、1,2年気まずくなっていた箕田氏との仲が戻った、とある[注 11]

1981年(昭和56年)頃、須磨利之が「辻村氏は糖尿で病床にある」と書いている[15]

1987年(昭和62年)、没。

エピソード

  • 奈良を中心に活動した。
  • 陸軍の輜重(しちょう)兵(=後方支援隊)。(美濃村伝聞。極楽商売)。従軍4年。
  • 戦後の職業は通説では、金物屋、経理、衛生検査技師だが、詳細は不明。学校教師との説もある。
  • 「戦争に引っ張られる前夜、ひそかに憧れていたいとこの女性から、『私をあなたの好きなようにしていいのよ』といわれて、高揚するままに腰ひもで縛った。」「その時の感情が忘れられず、戦場でも『もう一度彼女を縛りたい。こんあところでは死にたくない』と思い続けていた」(美濃村伝聞。極楽商売)
  • 綠猛比古が初期のペンネームであることを、奇譚クラブ1965年(昭和40年)5月号, p14で告白している。それによると「私が奇クへ始めて執筆したときは、緑猛比古のペンネームで・・・箕田氏と親しくなるにつれて、モデルなどの生態や、ルポ、又現代物で今の辻村隆を使いだし・・・・」とある。
  • 「古書の緊縛手法の本を開き乍ら、あれこれと緊縛し[11]
  • 辻村隆が1967年(昭和42年)の山本一章との対談で、梨花悠紀子について「一番印象に残るモデル」「私がすっかり飼育して、Mにしてしまいました」と述べている[16]
  • 辻村隆が1967年(昭和42年)の山本一章との対談で、伊吹真佐子について「息の長いモデル」「不思議に縁が切れず」と述べている[16]
  • 辻村隆が1967年(昭和42年)の山本一章との対談で、川端多奈子について「ショックだったのは矢張りなんといっても川端多奈子」「震える手で縛った時の感激は今でも忘れられない」と述べている[16]
  • 辻村隆が1967年(昭和42年)の山本一章との対談で、杉芙美について「『千一夜』でもモデルをしていた人に、お灸を据えての、一連のシリーズ作(襲われる女)の時の構成も記憶に灼きついています。」と述べている[16]
  • 辻村隆が1967年(昭和42年)の山本一章との対談で、愛川悦子について「バナナボートの浜村美智子によく似ていたのでカリプソと呼んでいた」と述べている[16]
  • 1976年(昭和51年)頃は、縛りの方から遠ざかり、「おしっこ」に興味を持っているとインタビューに答えている[1]
  • 伊藤晴雨との交友について奇譚クラブ1969年(昭和44年)6月号「サロン楽我記」で「私が伊藤老と交渉があったのは、ほんの晩年数年」「老はかなり衰弱しておられ」とある。

代表作

初期の執筆作品

初期の緊縛写真

『緊縛モデルの素顔』

後の『カメラハント』につながる、モデルのプライベートな部分にまで踏み込んだルポ。奇譚クラブの発禁の影響で3回で終了。

『話の屑篭』

SMカメラ・ハント

奇譚クラブ1964年(昭和39年)11月号から1973年(昭和48年)3月号までの8年5月(うち、2号が休載)にわたり連載。SMカメラ・ハントのページ参照。

『SM艶魔帖』

SMキング1972年(昭和47年)8月創刊号より1974年(昭和49年)5月号まで連載。

その他

辻村隆研究

関連文献

下川耿史「極楽商売―聞き書き戦後性相史」(筑摩書房、1998) 

参考資料

  1. 1.0 1.1 1.2 下川耿史『許されざる人々のエロス:極限を追求する辻村隆氏』週刊サンケイ, 1976年(昭和51年)4月15日号, p159-p161
  2. 綠猛比古映画の緊縛断片』1956年(昭和31年)4月号, p81
  3. 辻村隆「話の屑籠」奇譚クラブ1956年(昭和31年)4月号, p144
  4. 4.0 4.1 辻村隆『モデル女のまぞひずむ』奇譚クラブ1954年(昭和29年)10月号, p274
  5. 『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。
  6. 大崎善生赦しの鬼 団鬼六の生涯』第四回「小説新潮」2011年(平成23年)10月号
  7. 辻村隆『サロン我楽記』奇譚クラブ1965年(昭和40年)5月号, p14
  8. 芳野眉美濡れにぞ濡れし 眉美大阪に行く奇譚クラブ1966年(昭和41年)4月号, p150
  9. 辻村隆 『「徳川女刑罰史」のスターを縛る』』奇譚クラブ 1968年(昭和43年)11月号, p220辻村隆 『「徳川女刑罰史」ロケ日記 』奇譚クラブ 1968年(昭和43年)11月号、辻村隆『S・Mカメラハント「徳川女刑罰史」(秘)銘々伝』奇譚クラブ 1968年(昭和43年)12月号、194-217.
  10. 団鬼六『蛇のみちは―団鬼六自伝』(幻冬舎, 1997)
  11. 11.0 11.1 辻村 隆『カメラ・ハント楽我記』奇譚クラブ、1970年(昭和45年)12月号臨時増刊号、25-56.
  12. 奇譚クラブ1970年(昭和45年)1月号号「サロン楽我記」
  13. 『性倒錯の世界』で新宮の東氏を縛ったS女性(実はM女性)と野村信子を連れて行きM女性代表としてTVに出てもらう。三波伸助が興味をもって話しかけてくる。撮影終了後賀山茂と久しぶりに会う。「賀山氏を鬼六さんに紹介してから、そこは東京同志の近さで、彼は鬼六さんに協力して、緊縛写真集に熱を上げて出し、かつては、私のカメラ・ハントに協力してくれたのに、私を鬼六さんに乗り換えた格好になって、多少の誤解もあって音信も途絶えたが、会えば世話になった昔なじみ。」
  14. 奇譚クラブ1972年(昭和47年)2月号, p234
  15. 美濃村晃『アクションロープハント 淫ら妻は背後責めに燃えた』復刊奇譚クラブ1982年(昭和57年)4月号
  16. 16.0 16.1 16.2 16.3 16.4 辻村隆辻村隆山本一章対談 緊縛モデル秘奥談義』奇譚クラブ1967年(昭和42年)5月号, p26

注釈

  1. 団鬼六が『外道の群れ―責め絵師伊藤晴雨をめぐる官能絵巻』(1996, 朝日ソノラマ)の中で「辻村隆は大正一桁生まれ」と述べているのに合わない。同時に須磨利之が二桁生まれと言っているので、両者を混同しているだけかもしれない。
  2. 川端に出会う前は、夫人を時々縛って楽しむといった程度だったと、週刊サンケイのインタビューに答えている。
  3. 「アメリカ雑誌のポニイの後手の縛り方からヒントを得て」とある。
  4. 1956年(昭和31年)1月号より断続的に前身ともいえる『話の屑篭』を書いていた。
  5. 大阪11PMで藤本義一が司会。。辻村はサングラスをかけていた。「TV局は吉田を再三誘ったが吉田はでなかった」とある
  6. 奇譚クラブ1971年(昭和46年)1月号の辻村隆 p237 「サロン楽我記」によると、「大映撮影所から電話がかかり」「『沈黙』の緊縛指導にご協力願いたい」「篠田監督に紹介され」「キシリタンが捕吏に捕らえられる際の早縄の掛け方」を「捕吏になる俳優さんにご披露」とある。ろことが、奇譚クラブ1971年(昭和46年)2月号の辻村隆 p234 「サロン楽我記」には、「資金繰りがつかず製作中止」「岩下志麻さんらと相まみえる機会も遂になくした」とある。
  7. 奇譚クラブ1971年(昭和46年)6月号, p154によると、友人のドクター氏と。
  8. 奇譚クラブ1971年(昭和46年)5月号, p235によると、団鬼六の紹介で実現。「異能人間シリーズ」の1つ。
  9. 奇譚クラブ1972年(昭和47年)1月号, p148に観劇感想が掲載。それによると団鬼六辻村隆の対談場面。
  10. 「数年来の持病の、糖尿による、コレステロールの増加や、血糖値の高さに毎月、連続の執筆は、何とも精神的な負担が重く」とある。
  11. これによると、「今は絶交したMに・・ネガを貸したなっかりに・・・外国誌やC誌にSMカメラ・ハントの写真が流れ・・・箕田氏が私の良識を疑いたくなるのも当然。」「私の要請にも関わらず、M女性やハント女性を私の方に廻さなくなったのも」「女性を紹介してくれないのなら・・誘いのあった鬼六氏にのってみよう」「今の私の心境は、暫く、一読者として、奇譚クラブを読む方の側に」「私を希少価値の存在でなくしていった今」
  12. 中富綾子並川トミ川端多奈子が緊縛担当として出ている。

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