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'''せい めい'''、19??年(昭和??年)-
'''たけひさ ゆめじ'''、1884年(明治17年)9月17日 - 1934年(昭和9年)9月1日


==概要==
==概要==
明治、大正、昭和初期に人気を博した画家。『夢二式美人』とも呼ばれる憂いを含む女性画が特徴。大衆画家として人気を得たものの、中央画壇からは受け入れられず一般画としての評価は死後しばらくして確立。女性遍歴が激しく、そのうちの一人、[[佐々木カネヨ]](お葉)を巡る、[[藤島武二]]、[[伊藤晴雨]]らとの愛憎関係は、しばしば小説・映画・劇画の題材となっている。


==別名==
==別名==
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[[竹久夢二]]、竹久茂次郎(本名)


==略歴==
==略歴==
1919年(大正8年)<ref group="注">Wikipedia由来の情報であるが、怪しい。[[佐々木カネヨ]]をモデルとしたとされる竹久夢二の「'''黒船屋'''」の発表が1918年(大正7年)なので、それ以前に二人はあっているはず。</ref>、[[佐々木カネヨ]]と知り合う。
1884年(明治17年)9月17日、岡山県に生まれる。


1921年(大正10年)[[佐々木カネヨ]]と渋谷に居をかまえる。
1901年(明治34年)、家出して上京。翌年、早稲田実業学校に入学<ref name="yumejiryouran"></ref>。
 
1907年(明治40年)、'''岸たまき'''と結婚。翌年、長男が誕生<ref name="yumejiryouran"></ref>。
 
1909年(明治42年)、岸たまきと離婚<ref group="注">ただし、岸たまきとはその後も同棲・別離を繰り返しながらしばらく関係が続く。</ref>。
 
1910年(明治43年)、'''長谷川カタ'''<ref group="注">『'''宵待草'''』のモデル。</ref>と出会う。
 
1915年(大正4年)5月、'''笠井彦乃'''と出会う。
 
1916年(大正5年)12月、同棲していた岸たまきが出奔。
 
1917年(大正6年)2月、京都に転居。6月には笠井彦乃が合流。
 
1918年(大正7年)3月、笠井彦乃の父親が笠井彦乃を東京に連れ帰る。その後、再び笠井彦乃は京都に戻るが、京都で入院し、再び父親の管理下に。
 
1918年(大正7年)12月、東京に戻り菊富士ホテルに逗留<ref name="yumejiryouran"></ref>。
 
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1920年(大正9年)1月、笠井彦乃が永眠。
 
1921年(大正10年)6月、菊富士ホテルを引き払い[[佐々木カネヨ]]と母が住む下田畑の家に同居<ref name="yumejiryouran"></ref>。
 
1921年(大正10年)7月、[[佐々木カネヨ]]とその母と共に渋谷区宇田川に居をかまえる<ref name="yumejiryouran"></ref>。


1924年(大正13年)、世田谷「少年山荘」に移る。[[佐々木カネヨ]]が出産するが夭折。
1924年(大正13年)、世田谷「少年山荘」に移る。[[佐々木カネヨ]]が出産するが夭折。


1925年(大正14年)、[[佐々木カネヨ]]が自殺未遂。別れる。
1925年(大正14年)、[[佐々木カネヨ]]が自殺未遂。別れる。
1927年(昭和2年)、'''都新聞'''<ref group="注">後の東京新聞</ref>に自伝的小説『'''出帆'''』を連載。[[佐々木カネヨ]]<ref group="注">小説の中では「お花」として登場。</ref>や[[伊藤晴雨]]<ref group="注">小説の中では「伊東」として登場。</ref>が出てくる。
1934年(昭和9年)9月1日、結核のため永眠。
==エピソード==
==エピソード==


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*金森敦子『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794962584/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4794962584&linkCode=as2&tag=iq05-22 '''お葉というモデルがいた―夢二、晴雨、武二が描いた女''']』(晶文社, 1996)
*金森敦子『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4794962584/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4794962584&linkCode=as2&tag=iq05-22 '''お葉というモデルがいた―夢二、晴雨、武二が描いた女''']』(晶文社, 1996)
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4257790393?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4257790393 '''異形の宴―責め絵師伊藤晴雨奇伝''']』(2000, 朝日ソノラマ)
*[[団鬼六]]『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4257790393?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4257790393 '''異形の宴―責め絵師伊藤晴雨奇伝''']』(2000, 朝日ソノラマ)
*『'''三面夢姿繪'''』 (A&E films, 2000)(製作:河野通雄、山崎達璽 、監督:[[山崎達璽]] 、出演:佐藤雪江、渋谷育男、光宣、山本清、足立学他)
*『'''変貌自在の天性のモデルー佐々木カ子ヨ(カネヨ)'''』in 平山亜佐子「[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4336050201/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4336050201&linkCode=as2&tag=iq05-22 20世紀破天荒セレブ―ありえないほど楽しい女の人生カタログ]」(国書刊行会, 2008)
*『'''変貌自在の天性のモデルー佐々木カ子ヨ(カネヨ)'''』in 平山亜佐子「[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4336050201/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4336050201&linkCode=as2&tag=iq05-22 20世紀破天荒セレブ―ありえないほど楽しい女の人生カタログ]」(国書刊行会, 2008)



2020年11月17日 (火) 15:04時点における最新版

竹久夢二の自伝的小説『出帆』に登場する佐々木カネヨ伊藤晴雨
佐々木カネヨをモデルとしたのでは[1]と考えられている竹久夢二の『白木蓮と乙女』(1919頃)

たけひさ ゆめじ、1884年(明治17年)9月17日 - 1934年(昭和9年)9月1日

概要

明治、大正、昭和初期に人気を博した画家。『夢二式美人』とも呼ばれる憂いを含む女性画が特徴。大衆画家として人気を得たものの、中央画壇からは受け入れられず一般画としての評価は死後しばらくして確立。女性遍歴が激しく、そのうちの一人、佐々木カネヨ(お葉)を巡る、藤島武二伊藤晴雨らとの愛憎関係は、しばしば小説・映画・劇画の題材となっている。

別名

竹久夢二、竹久茂次郎(本名)

略歴

1884年(明治17年)9月17日、岡山県に生まれる。

1901年(明治34年)、家出して上京。翌年、早稲田実業学校に入学[1]

1907年(明治40年)、岸たまきと結婚。翌年、長男が誕生[1]

1909年(明治42年)、岸たまきと離婚[注 1]

1910年(明治43年)、長谷川カタ[注 2]と出会う。

1915年(大正4年)5月、笠井彦乃と出会う。

1916年(大正5年)12月、同棲していた岸たまきが出奔。

1917年(大正6年)2月、京都に転居。6月には笠井彦乃が合流。

1918年(大正7年)3月、笠井彦乃の父親が笠井彦乃を東京に連れ帰る。その後、再び笠井彦乃は京都に戻るが、京都で入院し、再び父親の管理下に。

1918年(大正7年)12月、東京に戻り菊富士ホテルに逗留[1]

1919年(大正8年)頃、佐々木カネヨがモデルとして通い始める[1]

1920年(大正9年)1月、笠井彦乃が永眠。

1921年(大正10年)6月、菊富士ホテルを引き払い佐々木カネヨと母が住む下田畑の家に同居[1]

1921年(大正10年)7月、佐々木カネヨとその母と共に渋谷区宇田川に居をかまえる[1]

1924年(大正13年)、世田谷「少年山荘」に移る。佐々木カネヨが出産するが夭折。

1925年(大正14年)、佐々木カネヨが自殺未遂。別れる。

1927年(昭和2年)、都新聞[注 3]に自伝的小説『出帆』を連載。佐々木カネヨ[注 4]伊藤晴雨[注 5]が出てくる。

1934年(昭和9年)9月1日、結核のため永眠。

エピソード

関連作品

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 夢二繚乱』展(2018)図録より

注釈

  1. ただし、岸たまきとはその後も同棲・別離を繰り返しながらしばらく関係が続く。
  2. 宵待草』のモデル。
  3. 後の東京新聞
  4. 小説の中では「お花」として登場。
  5. 小説の中では「伊東」として登場。

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