映画における緊縛指導(番外編1):本木荘二郎

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(この記事は2009-010-17にアメーバに投稿した記事を加筆訂正したものです)

団鬼六脚本、岸信太郎(山邊信夫)監督の『花と蛇』が製作された1965年、団氏はまだテレビ洋画製作会社の社員だった。1966年頃には団氏はこのTV映画製作会社を辞めているようだ。いよいよSM小説家、ピンク映画脚本家として生活していくことを決心したのであろう。

日本映画データベース(JMDB)によると、1965年には『花と蛇』の他に、「黒岩松次郎」のペンネームでもう一本『濡れた女』の脚本を書いている。『花と蛇』と同じく、「東京企画」の製作で、こちらの監督は「松原次郎」である。「松原次郎」はその後も団氏の脚本を監督することが多いが、元東映監督の仲木睦でないかと思われる。

TV映画製作会社を辞めた1966年に入ると、「団鬼六」「黒岩松次郎」に加えて、奇譚クラブの初期のペンネーム「花巻京太郎」の名前も使い脚本を書き出す。JMDB にリストされているだけで5本の脚本を書いており(リストされていないが『花と蛇より 骨まで縛れ』もそうだと思われるので、これも入れると6本)、全て山邊信夫の「ヤマベ・プロ」の作品である。監督は2本が「飛田良」、4本が「高木丈夫」である。「飛田良」は、ヤマベ・プロにしかその名が出ておらず、その正体は不明だ。一方、「高木丈夫」の方は「本木荘二郎」の変名である。

「本木荘二郎」は、1914年の生まれである。SM関係者でいうと、名和弓雄や高倉一の世代で、団氏よりはかなり年上になる。東宝に入社後、山本嘉次郎の助監督を勤め、その後は黒澤明のパートナーとして、『酔いどれ天使』『羅生門』『生きる』『七人の侍』などを世に出した名プロデューサーである。一昔の映画ファンなら知らない人はいないぐらいの大物である。この世の春を謳歌していた本木であるが、しかしながら1957年に突如黒澤と決別し、東宝を去る。クビになったわけである。

東宝をクビになった本木氏は、やがてピンク映画の監督として再び映画界に姿を現す。以前にも紹介したが、日本ピンク映画の第一号を「1962年3月公開の小林悟『肉体の市場』(協立映画)」とする説と、「1962年11月公開の本木荘二郎『肉体自由貿易』(国新映画)」とする説の2つがある。後者を支持する根拠は、協立映画は大蔵映画(当時は大手に分類)の傍系なので、ピンク映画の定義である「独立プロによる低予算セックス映画」の「独立プロ」に相応しくないということらしい。何にせよ、本木氏はその誕生時からピンク映画に関わっていた監督で、その本木氏が団氏のSM映画をいくつか監督しているのは興味深い。

ヤマベ・プロでの本木氏の記録上の第一作は1966年1月の『裸の復讐』である。企画が山邊氏、製作が高木丈夫(=本木)、監督が高木+松原、原作が花巻京太郎「黒猫作戦」とある。1月の完成なので、山邊氏と本木氏は遅くとも1965年には出会っていたと思われる。

山邊氏と本木氏の出会いについては、藤川黎一氏の「虹の橋」にある山邊氏の回想から探ることができる。それによると、最初の出会いは「目黒スタジオでアテレコをやっているとき・・(本木の)ダビングを手伝った」とある。団氏と山邊氏が勤めていたテレビ洋画製作会社のことであろう。これからしばらくして、「団鬼六を使って『花と蛇』を撮った年・・・・目黒の長崎丸のマンションに本木が来て・・・(映画を撮らして欲しいというので)2つ返事で撮ってもらった。」とある。『花と蛇』を撮った年が1965年なので、記録上のヤマベ・プロの本木作品『裸の復讐』が1966年1月の公開というのは話が良く合う。山邊氏は本木氏に「10本前後」撮ってもらったとある。DMBJでは、ヤマベ・プロでの高木丈夫(=本木)監督作品は7作である。データベースに漏れがあるか、製作がヤマベ・プロ以外のプロダクションになっているか、まだ知られていない本木の別名があるか(本木氏は、高木丈夫、岸本恵一、品川照二、渋谷民三、藤本潤三、藤本潤二の名を使ってピンク映画を作製していた)、あるいは10本程度というのが6本のことなのかもしれない。この6本のうち、団氏の脚本となるのが『花と蛇より 骨まで縛れ』『裸の復讐』『魔性の人妻』『汚辱の女』の4本である。

一方で、団鬼六氏と本木荘二郎氏の最初の出会いは曖昧である。ヤマベ・プロで、1966年に少なくとも4つの団作品を本木氏は監督しているわけだから、この製作過程、すなわち1966年に、団氏と本木氏が顔を合わせてもおかしくないはずだ。

ところが団氏自伝の「蛇のみちは」に出てくる本木氏と団氏との出会いは1966年ではなく、1969年以降となっている。そこでは、1969年に鬼プロを設立し、団氏自らが映画製作に手を出してしばらくして、「たこ八郎が本木を鬼プロに連れて来た」とある。たこ八郎と酒場で会った本木が、たこ氏に団氏を紹介してく欲しいと頼んだとしている。たこ氏は1966年のヤマベ・プロ作品『汚辱の女』(団脚本)に俳優として出演しているので、本木氏とはこの時点で顔を合わせているのは確実である。団氏と面会した本木氏は「160万円で映画を作れる」と売り込んだ、とあり。そこで団氏は「鬼プロの4作目をお願いすることになった」とある。

団氏は、1966年にヤマベ・プロで仕事をしている本木氏と、顔を合わしていてもおかしくはないはずだ。話を面白くするために、たこ八郎の逸話を創作したのであろうか?しかし、ひょっとすると本当に団氏は1969年以前には本木氏と直接会っていないのかもしれない。

1966年頃テレビ洋画製作会社を辞めた団氏は、再び神奈川に引きこもったという記述がある。今度は、真鶴である。三崎よりさらに西側の熱海に近い街である。1967年に、真鶴を訪問してきた辻村氏から早縄を初めて見せてもらったとの記述もある。また69年に鬼プロが渋谷に設立された際も、週に2回は真鶴に戻っていたとある。東京から遠い真鶴で『続・花と蛇』やピンク映画の脚本といった執筆業に専念していのかもしれない。そうなると、69年以前、現場の本木氏と面識がなかった可能性も考えられる。

団氏の述べる、「本木氏が監督した鬼プロ4作目」がどの作品に相当するのか、調べてみたが分からない。それ以上に、DMBJには60年代、70年代には「鬼プロ」という名が一切出てこない。鬼プロが発足したのは1969年の5月であることは確実である。5月以降のそれらしい映画を捜すと、伊世亜夫監督、団鬼六脚本『女極道色欲一代』見つかる。中川プロダクションから1969年5月に公開されたものだ。配給はミリオン映画となっており、鬼プロはミリオン映画と契約を結んでいたとあるので、この『女極道色欲一代』は鬼プロ作品と考えてよさそうだ。同年12月には『狂った情痴』という作品が松原次郎監督で、製作がミリオン映画で公開されている。これも鬼プロ作品の匂いがする。団氏が本木氏に監督を頼んだ、鬼プロ4作目がどれにあたるのか興味あるのだが、残念ながら見当がつかない。

ヤマベ・プロでの本木の仕事は1968年前半に限られる。その後、本木氏は1969年にGプロファーストフィルムを中心に11本の作品を監督しているが、70年は2本、71年は3本、72年は2本と急減している。ところが、今度はミリオン製作で73年7本、74年10本、75年12本と再び監督本数が増えている。Gプロでの製作継続が難しくなった本木氏が、70年頃に鬼プロをスポンサーに作品発表を続けたということかもしれない。「蛇のみちは」では、鬼プロの4作目を本木氏に監督させた後、「本木氏がエロプロダクションのさらに下請けのようなプロダクションをやるようになった」ので、映画への情熱が冷めつつあった団氏は「そこに頼むようになった」。とある。73年以降の本木は、ミリオン映画を中心に活動しているので、ひょっとするとこれが鬼プロから依頼された本木氏の下請け映画を示しているのかもしれない。ただ、繰り返すように団氏の記述には創作部分が多いようなので要注意である。

ヤマベ・プロでの本木の仕事は,なぜ半年少しで終わったのか?「虹の橋」には、山邊氏からの伝聞にこうある。「給料は30万をくだらないぐらい差し上げていたと思いますが・・・・10本前後作ったとき、配給会社に納める170万円をポケットに入れてしまった。」「潔白だの濡れ衣だの白を切りまして、謝ったのは先方の事務所のドアーを開けた瞬間でした」とある。金銭トラブルである。

「虹の橋」には団氏からの伝聞もある。団氏の本木評は散々である。

「本木はねえ、つまらんおやじだったよ。俺なら筆にしない。どこが面白いのかね」「本木は天才的な詐欺師だよ。昭和四十四、五(1969,70)年だったな。ピンク映画を五本撮らしてやったよ。奴は十人分のおんなのギャラを懐にしておきながら、五人しか出演させず差額を猫糞しちゃったよ。」

とある。1980年代始めのインタビューだと思われるが、まだ怒りがおさまらないご様子である。

実は、1957年に本木氏が東宝をクビになった理由としても、金銭面でのトラブルが噂されている。ピンク映画の撮影現場でも、若い俳優からの借金を踏み倒したということで「くそじじい」と罵倒されたりしていたそうだ。こうあちこちで、金銭上のトラブルを起こしたのを知ると、本木荘二郎氏は救いようのない人物のような気がしてくるが、ピンク映画界には監督の山本晋也や浜野佐知、俳優の野上正義など、本木信者も多い。1つには、本木が、企画・脚本から配役、監督、編集と全て一人でこなしてしまう才能をもっており、そのノウハウを多く学ぶことができたことでああろう。「本木さんは動くヌード写真の域を出ないピンク映画にストーリーを加えて、濡れ場を濡れ場らしく撮った先駆者。」「女性の体をパーツに分けてドアップで撮る。そして、編集でつなぐ。見事なモンタージュだった」と映画製作技術を評価する声もある。

何よりも本木の「映画を撮るのがうれしくてたまらない、という表情でキャメラの横に立ち、つねに笑顔をたたえていた。過去の栄光への未練など、つゆほども感じられなかった。」という映画を愛する姿勢が人々の心を掴んだのであろう。「宵越しの金は持たない方でね、スタッフに飲み食いさせて喜ぶたちの人だったな。黒澤映画のプロデューサーを務めたなんて話、おくびにも出しません。」若い俳優を自分のアパートに居候させたりし、優しい心の持ち主だった。

「七人の侍」では撮影日数315日、直接制作費2億1千万円を黒澤のために提供した辣腕プロデューサーは、ピンク映画の世界で「詐欺師」呼ばわりされながらも170万円で映画を撮り続けた。持病の喘息が原因で、新宿のボロアパートで一人寂しく病死する。少ない遺品の中には『羅生門』で受賞したベネチア映画祭グランプリの金獅子像が交じっていた。1977年、本木氏62歳の時だ。ピンク映画は最盛期を過ぎ、団氏もとうの昔にピンク映画から手を引いていた。世はSM雑誌ブームに沸いていた。家庭用ビデオ再生機も既に2年前に販売され、80年代のSMビデオブームへの下地ができつつあった。