「岩佐又兵衛」の版間の差分

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==エピソード==
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*ダイナミックな人物表現が特徴。
*ダイナミックな人物表現が特徴。
*歌舞伎・文楽の「傾城反魂香」の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデルとされる。片岡仁左衛門のお家芸「片岡十二集」の一つ。
*歌舞伎・文楽の『傾城反魂香』<ref group="注">死を決して自画像を石の手水鉢に描くと、画像が裏へ抜け出る奇跡が起こる。その功で、土佐の名字を許される。</ref>の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデルとされる。片岡仁左衛門のお家芸「片岡十二集」の一つ。
*岡田茂吉により戦後蒐集された。
*岡田茂吉により戦後蒐集された。
*「浮世絵をつくった男」「浮世絵の源流」「浮世絵の祖」などと呼ばれる。
*「浮世絵をつくった男」「浮世絵の源流」「浮世絵の祖」などと呼ばれる。

2014年10月25日 (土) 21:25時点における版

岩佐又兵衛作の『浄瑠璃物語絵巻』から第12巻の一場面。源義経の命により恋人(浄瑠璃)を死に追いやったその母を簀巻きにして川に放り込み死罪にする場面。17世紀前半の作品。

いわさ またべえ、1578年(天正6年)-1650年(慶安3年)6月22日。江戸初期(17世紀初)の絵師。織田信長に仕えていた荒木村重の子。「浮世絵の祖」とも称される。『浄瑠璃物語絵巻』には捕縄風に縛られ簀巻き死罪の場面が。

概要

江戸時代初期の絵師。浮世絵の祖とも称される。

別名

浮世又兵衛、岩佐又兵衛勝以(かつもち)、吃の又平

略歴

1578年(天正6年)、織田信長に仕えていた荒木村重の子、あるいは孫として生まれる[1]

1578年(天正6年)、荒木村重は織田信長に謀反。

1580年(天正8年)頃、京師西本願寺に庇護され、母方の岩佐姓を名乗る[1]

1578年(天正15年)頃、豊臣秀吉が主催した北野大茶会を見る[1]

成人後、織田信雄に仕える[1]

二条昭実の御所に出入りし、幅広い教養を身につける[1]

狩野内膳に絵を習う。土佐派の絵師からも習う[1]

京都時代から既に「工房」をもち、複数の絵師で分担作業。

1615年頃、京都から福井に移る。藩主松平忠直の文化人招聘の一貫[1]

福井在住時に『山中常磐物語絵巻』『浄瑠璃物語絵巻』を制作。

1637年(寛永14年)、徳川家光の娘の婚礼調度制作のために江戸に移る。妻子は福井に残る[1]

江戸在住時に『堀江物語絵巻』を制作。

1650年(慶安3年)6月22日、江戸で永眠。

エピソード

  • ダイナミックな人物表現が特徴。
  • 歌舞伎・文楽の『傾城反魂香』[注 1]の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデルとされる。片岡仁左衛門のお家芸「片岡十二集」の一つ。
  • 岡田茂吉により戦後蒐集された。
  • 「浮世絵をつくった男」「浮世絵の源流」「浮世絵の祖」などと呼ばれる。
  • 「劇画の開祖」とも称される。

代表作

  • 山中常磐物語絵巻
  • 浄瑠璃物語絵巻
  • 堀江物語絵巻

作品集

矢代勝也『岩佐又兵衛作品集―MOA美術館所蔵全作品』(東京美術, 2013.10.1)

引用文献

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 矢代勝也『岩佐又兵衛作品集―MOA美術館所蔵全作品』(東京美術, 2013.10.1)

注釈

  1. 死を決して自画像を石の手水鉢に描くと、画像が裏へ抜け出る奇跡が起こる。その功で、土佐の名字を許される。

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