奇譚クラブ

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奇譚クラブ』(Kitann Club)は、1946(1947)年(昭和21,22年)から1975年(昭和50年)までの長期間にわたって発刊されたアブノーマル雑誌で、戦後のSM文化に多大な影響を与えた。

概要

発行年・出版社

曙書房:大阪府堺市菅原通り4-30

発行人・編集人

吉田稔

歴史

カストリ紙時代

奇譚クラブ1951年(昭和26年)12月号

1946年(昭和21年)創刊説と1947年(昭和22年)創刊説がある(上記参照)。B5版で出版。出版元は曙書房

1947年(昭和22年)12月号、『変態奇人号』で既に変態志向の兆し。

須磨参画時代(曙書房時代)

奇譚クラブ1952年(昭和27年)6月号

1951年(昭和26年)、1月号から月刊化[注 1]。この頃、須磨が参画[1][注 2]

1952年(昭和27年)、5月・6月合併号からA5版に変更し、『戦争と性慾特輯号』『倒錯の告白』などSM路線を開始[1]。7月号には『裸婦肉体美写真実費分譲』の案内に「・・責められる女の美の極致」、8月号に『責め女の写真実費分譲』と出る。

1952年(昭和27年)、『KK通信[注 3]を発行(1955年まで)。

1953年(昭和28年)、須磨が離脱。7月号から須磨利之の作品がほぼなくなる。松井籟子の『淫火』の挿絵も喜多玲子から栗原伸に変わる。

1953年(昭和28年)11月号、濡木の『悦虐の旅役者』が青山三枝吉のペンネームで採用。挿絵は都築峰子

1954年(昭和29年)、3月号が発売4日目で発禁処分。濡木痴夢男が真木不二夫で掲載した『魔性の姉妹』(都築峰子挿絵)の内容が問題となった。

1955年(昭和30年)、5月号が摘発され、発禁処分。6月号〜9月号、12月号が休刊。

白表紙時代(天星社時代)

奇譚クラブ1955年(昭和30年)10月号

1955年(昭和30年)、発行元を天星社に変更して、10月号を出す[注 4]。11月号まで出して再び翌年3月まで休刊。1955年(昭和30年)10月号から1960年(昭和35年)5月号までを「白表紙時代」という。天星社時代は、さらに1967年(昭和42年)まで続く。

1956年(昭和31年)4ヶ月の休刊の後、4月号から復刊。11月号も休刊。

1958年(昭和33年)7月号に団鬼六の『お町の最後』が花巻京太郎の名で掲載。懸賞小説一位入選作品。

1960年(昭和35年)6月号より、カラー表紙に戻る。

1960年(昭和35年)、濡木痴夢男奇譚クラブの東京進出と編集長の打診をおこなう[注 5][3]

1962年(昭和37年)8・9月合併号より、団鬼六の『花と蛇』が花巻京太郎の名で掲載。連載2回目は11月号、3回目は12月号。ここで休載。

1963年(昭和38年)7月号より、『花と蛇』再開。花巻京太郎から団鬼六にペンネーム変更。

1964年(昭和39年)、11月号から辻村隆の「カメラハント」が連載開始(1973年まで)。

暁出版時代

奇譚クラブ1967年(昭和42年)8月号

1967年(昭和42年)、暁出版株式会社に組織替え。

1968年(昭和43年)9月、「本誌自粛の徹底」をこれ以降の号、毎月に掲載し、当局の取り締まりを意識。

1975年(昭和50年)3月号以降は発刊されず。

エピソード

  • 曙書房:大阪府堺局区内菅原通4-30
  • 天星社:大阪市阿倍野区晴明通1-85
  • 暁出版株式会社:大阪市住吉区大領町4-68
  • Mathilde Angeline Herouard (c.1880-?) の作品が表紙に多数無断使用されている[4]

参考資料

注釈

  1. 1月号が「第二十六集」とある。第3種郵便物を取得したのが1950年(昭和25年)10月5日。「須磨としゆき」「箕田京」の変名で須磨利之の作品が多数。辻村隆も執筆。挿絵は沖研二。
  2. 1940年代後半のカストリ時代から既に須磨が関わっていたとする説もある(秋田 昌美、濡木痴夢男、不二 秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996))
  3. 16ページ。半年分120円を前納すると「特別会員」としてKK通信を郵送してくる。また、読者座談会に出席できたり、会員相互の文通が可能だった。
  4. この復刊第一号の表紙の写真は濡木の提供による。口絵の写真、本文の多くも濡木による(「奇譚クラブの絵師たち」より)。
  5. 返事は保留したが、その後吉田稔の方から、採算が採れないということで計画中止。

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