「夫婦生活」の版間の差分

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== 発行人・編集人==
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編集兼発行人:茂木英二(昭和25年1月号)
編集兼発行人:茂木英二(昭和25年1月号)
編集人:仲木都富(三代目編集長)


発行人:[[増永善吉]]
発行人:[[増永善吉]]
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== エピソード==
== エピソード==
*B6版で創刊。
*創刊号7万部は発売当日に完売。急遽2万部を増刷。当時、書籍の増刷は極めて珍しかった<ref>[http://www.zassi.net/contents/fuunroku.html 花田紀凱 戦後雑誌風雲録]</ref>。
*[[高倉一]]が3号目から編集員としていた。
*[[高倉一]]が3号目から編集員としていた。
*翻訳家の高橋豊が編集員としていた。
*翻訳家の高橋豊が編集員としていた。
*[[秦豊吉|丸木砂土]]が執筆していた。
*[[式場隆三郎]]、[[秦豊吉|丸木砂土]][[香山滋]]が執筆していた。
*[[香山滋]]が何作か短編を寄稿している。
*土門拳が巻頭グラビアの写真を担当していた。
*[[小松崎茂]]が挿絵を描いた作品も掲載された。
*[[小松崎茂]]が挿絵を描いた作品も掲載された。
*最盛期の1950年(昭和25年)1月には25万部の発行とも言われ、1954年(昭和29年)4月まで一度も摘発されなかった<ref>橋本健午『本の未来を考える=出版メディアバルNo,6 発禁・わいせつ・知る権利と規制の変遷 -出版年表-』(出版メディアバル 2005年4月・刊)</ref>。
*最盛期の1950年(昭和25年)1月には25万部の発行とも言われ、1954年(昭和29年)4月まで一度も摘発されなかった<ref>橋本健午『本の未来を考える=出版メディアバルNo,6 発禁・わいせつ・知る権利と規制の変遷 -出版年表-』(出版メディアバル 2005年4月・刊)</ref>。

2011年9月20日 (火) 12:24時点における版

夫婦生活1950年(昭和25年)1月号

ふうふせいかつ、1949年(昭和24年)ー1955年(昭和30年)[注 1]

概要

1949年(昭和24年)に『』の改題として増永善吉により創刊され1955年(昭和30年)まで続いた雑誌。婦人雑誌ブームの火付け役で全盛期には25万部出版されたと言われている。終刊後も何度か復刊している。「二人で読む実益家庭雑誌」。

発行年・出版社

1949年(昭和24年)6月、鱒書房(「夫婦生活社」との記載もあり)

1955年(昭和30年)、家庭社

1968年(昭和43年)は手帖社となっている。

発行人・編集人

編集兼発行人:茂木英二(昭和25年1月号)

編集人:仲木都富(三代目編集長)

発行人:増永善吉

主な出来事

1949年(昭和24年)6月、『』(鱒書房)の改題として増永善吉により創刊[注 2]

1955年(昭和30年)6月、家庭社から終刊号。

1957年(昭和32年)頃、家庭新社より復刊。

1968年(昭和43年)4月、手帖社が『LIZ』を改題して。『別冊夫婦生活

エピソード

  • B6版で創刊。
  • 創刊号7万部は発売当日に完売。急遽2万部を増刷。当時、書籍の増刷は極めて珍しかった[1]
  • 高倉一が3号目から編集員としていた。
  • 翻訳家の高橋豊が編集員としていた。
  • 式場隆三郎丸木砂土香山滋が執筆していた。
  • 土門拳が巻頭グラビアの写真を担当していた。
  • 小松崎茂が挿絵を描いた作品も掲載された。
  • 最盛期の1950年(昭和25年)1月には25万部の発行とも言われ、1954年(昭和29年)4月まで一度も摘発されなかった[2]
  • 1970年(昭和45年)5月号特別増刊『SM立体カラー医学カード』(監修:木村康雄)のタイトルに「SM」と入っているが、SMという言葉の誕生の歴史から見ると、タイトルにSMが入った書籍としてはかなり早い。

引用文献

  1. 花田紀凱 戦後雑誌風雲録
  2. 橋本健午『本の未来を考える=出版メディアバルNo,6 発禁・わいせつ・知る権利と規制の変遷 -出版年表-』(出版メディアバル 2005年4月・刊)

注釈

  1. ただしその後復刊している。
  2. 菊池寛が1933年(昭和8年)に文藝春秋社から創刊した情報誌。市井の話題を記者が記事とした軟派雑誌。

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