「塚本鉄三」の版間の差分

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*[[塚本鉄三]]『'''[SM研究会]の提唱'''』[[奇譚クラブ]]1973年(昭和48年)12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197312/197312_098.html p239]
*[[塚本鉄三]]『'''[SM研究会]の提唱'''』[[奇譚クラブ]]1973年(昭和48年)12月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197312/197312_098.html p239]
*[[塚本鉄三]]『'''S研放談・プレイ会顛末記 前田真知子を囲むダベリ会'''』1974年(昭和49年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197408/03/180.html p182]
*[[塚本鉄三]]『'''S研放談・プレイ会顛末記 前田真知子を囲むダベリ会'''』1974年(昭和49年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197408/03/180.html p182]
*[[塚本鉄三]]『'''S研放談・プレイ会顛末記 前田真知子を囲む会と、その顛末'』1974年(昭和49年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197408/03/201.html p200]
*[[塚本鉄三]]『'''S研放談・プレイ会顛末記 前田真知子を囲む会と、その顛末'''』1974年(昭和49年)8月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197408/03/201.html p200]
*[[塚本鉄三]]『'''古都”奈良”の黄昏 森田芙美子の豊満な女体を満喫する'''』[[奇譚クラブ]]1974年(昭和49年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197410/03/172.html p174]
*[[塚本鉄三]]『'''古都”奈良”の黄昏 森田芙美子の豊満な女体を満喫する'''』[[奇譚クラブ]]1974年(昭和49年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197410/03/172.html p174]
*[[塚本鉄三]]『'''S研ニュース 『SM勉強会』研鑽日記抜粋'''』[[奇譚クラブ]]1974年(昭和49年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197410/03/228.html p230]
*[[塚本鉄三]]『'''S研ニュース 『SM勉強会』研鑽日記抜粋'''』[[奇譚クラブ]]1974年(昭和49年)10月号, [http://nawa-art.com/backnumber/1970/197410/03/228.html p230]

2011年1月6日 (木) 12:23時点における版

つかもと てつぞう (生年不明) 奇譚クラブで活躍した写真家。

活動内容

写真家。緊縛師。奇譚クラブの初期の段階から1975年(昭和55年)3月号の週刊号まで作品と発表し続けた。

別名

Tetsuzo Tsukamoto

略歴

1950年(昭和25年)頃 緊縛写真を撮影開始。

1953年(昭和28年)12月、『美しき縛しめ』(曙書房)での撮影担当。緊縛は須磨利之(第一集)、辻村隆(第二集)

1970年(昭和45年)、奇譚クラブ10月号から「カメラ・ルポ」シリーズ。

1975年(昭和55年)、『カメラとペンのSMルポルタージュ」

エピソード

  • 大阪南のDストリップ劇場でストリッパーたちの宣伝スチール写真を撮っていた。新聞社の記者だったという記述も[1]
  • 浦戸宏が「塚本は縞の縄をよく使っていたが、これは鞄の芯の縄であった」と説明[2]
  • お気に入りのモデルは関谷富佐子[3]
  • 四馬孝と仲が良く、同じモデルを塚本が写真撮影、四馬がデッサンしていた[3]

代表作

  • 1970年12月の別冊奇譚クラブ「女体緊縛の醍醐味を語る」

緊縛フオトの実際

モデルに梨花悠紀子を使った。

カメラ・ルポルタージュ

[カメラ]と[ペン]のSMルポルタージュ

S研レポート

引用文献

  1. 北原童夢早乙女宏美『「奇譚クラブ」の人々』(河出書房新社, 2003)
  2. SUN&MOON1978年(昭和53年)8,9月号
  3. 3.0 3.1 奇譚クラブ1970年(昭和45年)7月号, p233

注釈


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