テンプレート:『緊縛の捕縄術起源論』を考える

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日本の緊縛が捕縄術に強く影響を受けていることは疑いのない事実であろう。伊藤晴雨の著作の中には、数多くの早縄に関連した記述があり、また、絵画作品の中にも晴雨が本縄の研究をしていたことを伺わせるものもある。奇譚クラブの記事に中には、捕縄術に言及したものは多くあり、また、同誌の辻村隆他の写真の中にも、捕縄術に影響されたと思われる縛りが散見される。  濡木痴夢男、明智伝鬼、志摩紫光、春兜京などは、積極的に捕縄術の資料を収集し研究しており、他の緊縛師も程度の差はあれ、捕縄術の早縄、本縄への興味を示している。このように、現代緊縛が、捕縄術の影響を受けていることは間違いない事実ではある。ただし、「現代緊縛は捕縄術の影響を受けている」と「現代緊縛は捕縄術にその起源をもつ」とは全く別の話である。以下に、欧米で『緊縛の捕縄術起源論』が広まった経緯と背景を紹介しながら、『緊縛の捕縄術起源論』の妥当性を検証してみる。

奇譚クラブの時代から日本と欧米の愛好者の間での交流はあったようだが、爆発的に情報交換が始まるのは、インターネットが普及する1990年代中頃からである。1996年(平成9年)には、海外への日本SMのコンテンツ販売を狙ったKikkou.comが日本で開設され、志摩紫光や乱田舞の動画、豊浦正明の緊縛写真などが発信され、2001年に長田スティーブに所有権が移った後には、一挙にコンテンツが増え、当時の著名日本人緊縛師の情報が海外に広める役割を果たしている。

1990年度の後半から2000年前後にかけて、インターネット上で趣味を同じくする人々が集まる、いわゆる「フォーラム」「Discussion Group」と呼ばれる活動が国内外で活発になる。いわゆる欧米でのBDSM愛好者グループ中でも、特に日本式の緊縛に興味を持つ人の集まるグループもいくつかあったようだ。その中の1つの「Adult Rope Art」は2001年8月に開設されたYahoo Groupで、開設者は米国フロリダ在住のBDSM愛好家Tatuである。Tatuが、日本文化の愛好者であることもあってか、Adult Rope Artでは主に日本緊縛に焦点を絞った情報交換がおこなわれていた。最盛期には会員数が 14,000人いたとされ、海外での日本緊縛の広がりに少なからず影響を与えたと思われる。Tatuは、同時にAdult Rope Artのホームページを運営しており、そこにあるTatuの略歴によると、乱田舞のビデオを初めて観た1993年頃から従来の西洋式のロープワークから日本式緊縛にシフトし、同じ頃に、米国の武術家Don Angierが1988年に制作した捕縄術のビデオに衝撃を受けたとある。独自にまとめた緊縛の歴史も掲載しており、その内容はいわゆる『緊縛の捕縄術起源説』を採っていることが分かる。Webのアーカイブからは、

Tatuが正確にいつ頃から『緊縛の捕縄術起源論』を主張しだしたかは分からないが、書籍として記録に残っているものでは、同じく2001年にMidoriが出版した"The Seductive Art of Japanese Bondage"の中に、15世紀の捕縄術の説明のあとに、”It's widely believed that our current Japanese erotic rope restraint techniques originated during this period"と書いている。「erotic rope restraint techniques」は日本式の現代緊縛技術と考えてよいであろうから、「日本緊縛は捕縄術の生まれた15世紀に起源をもつと広く信じられている」と書いていることになる。ただし、「広く信じられている」とあるように、Midori自身はその言説には責任はもちたくないという姿勢が伺える。2001年前後には、少なくとも米国では日本の緊縛は捕縄術に起源をもつと多くの関係者が考えていたことが想像できる。ちなみにMidoriは日本生まれのハーフで、中学卒業後米国に渡り、カリフォルニア州立大学バークリー校で心理学での博士号を取得しているセクシャリティ分野の研究者、教育者である。歴史学の専門家ではないが、講演や著作作品も多く、同時に、緊縛愛好家でもある。

Midoriの"The Seductive Art of Japanese Bondage"は、『緊縛の捕縄術起源論』を展開する際にしばしば引用される文献であるが、同じくよく引用されるのが、Master "K"の著作である。Master "K"はマチュア緊縛愛好家で大学では東洋文化の研究をしており、大学時代の交換プログラムで東大に留学したこともあり、1970年代から日本式の緊縛をおこなっていたようだ。Midoriの"The Seductive Art of Japanese Bondage"の3年後の2004年に”The Art of Shibari”を出版しており、その中では詳細に日本の歴史が紹介され、"Many of the images of modem Japanese S/M are drawn from the times of the Sengoku jidai or War Period of feudal Japan which stretched from 1492 to 1560."と明記されている。「drawn from」であるので「現代日本緊縛のイメージは、15−6世紀からの引用が多い」となり、多くの緊縛師が捕縄術などの古文書を研究していたことを考えると、妥当な表現なのかもしれない。その後に続いて、徳川時代の刑罰の中の “ebizeme (being bound by rope) and tsurizeme (being bound and suspended by rope) became the direct ancestors and inspirations for what would become the shibari art.”とある。現在の「海老縛り」や「逆さ吊り」がその起源を徳川時代の刑罰の「海老責」や「吊責」にもつことは、おそらくそうであろうが(後述のように伊藤晴雨がこれらの刑罰をプレイとしての責めに持ち込んでいる)、この2つがそうだからと言って、日本緊縛が捕縄術に起源をもつとは言えないであろう(そもそも、徳川時代の刑罰としての「海老責」ち「吊責」が捕縄術に起源をもつのかどうかについても、結論を出すには相当の検証が必要であろう)。”The Art of Shibari”の序文でMaster "K"は友人であるMidori(および、ドイツ人の緊縛家Matthias T. J. Grimme)に対して協力の謝辞を述べている。Midoriの書籍に関してもでMaster "K"からの情報が影響を与えていたことも考えられる。

Master "K"は4年後の2008年に、後に日本語にも翻訳される”The Beauty of Kinbaku"を出版する。やはり詳細な緊縛に関連する日本文化が紹介されており、ここでは15世紀の捕縄術の説明の中で "Regardless of its exact origins, what is clear is that hojojutsu was and is a very effective means of capture and binding and understanding its basic techniques is vital to an understanding of how modern shibari/kinbaku evolved"と述べている。前著よりもより控えめな表現で捕縄術の現代緊縛への影響を述べている。

MidoriにしろMaster "K"にしろ、いわゆるアカデミックな研究者ではなく、まして歴史を専門とする研究者ではないが、理論的な話の展開ができる人で、『緊縛の捕縄術起源論』に関連した記述も、慎重に書かれているのが分かる。

彼らの著書は、表面的には『緊縛の捕縄術起源論』を主張しているように読めるので、『緊縛の捕縄術起源論』を好むアマチュア緊縛家にとっては、引用しやすい文献となっているのであろう。特に欧米の緊縛文化にとっては、緊縛が捕縄術を起源にもつ方が収まりがよいといった背景があるのであろうが(これについては別頁で考察)、冒頭にも述べたように「現代緊縛は捕縄術の影響を受けている」は間違いないが、「現代緊縛は捕縄術にその起源をもつ」に関しては慎重に結論を出さなければならない。

現代日本の緊縛は、その系譜をたどれば、いまのところ近代SMの父とされる伊藤晴雨に収斂する。おそらく今後も、新たな資料が見つかったとしても、この事実は覆りそうにもない。したがって、「現代緊縛は捕縄術にその起源をもつ」かどうかの解答は、伊藤晴雨の活動の分析から得られるはずである。伊藤晴雨が、いわゆる捕縄術の使い手であったならば、日本緊縛は捕縄術=伊藤晴雨に起源をもつという言説もあながち無視はできないかもしれないが、そういったことを支持する資料はいまのところない。伊藤晴雨は、捕縄術を含め、芝居、絵画、小説に登場するいろいろな「責め」を研究していた。伊藤晴雨が日本SMの父と言われる所以は、公刑や異常者の行動とされる「責め=SM」が、個人(私)の楽しみ(性慾)のために使用できるのかどうかを晴雨の呼ぶ「実験」で確認しながら、実践していった点である。その研究過程が多くの著作で残されている。伊藤晴雨はもちろん捕縄術に関しても相当の研究をしていた用ではあるが、公刑で用いる責めと、個人(私)の楽しみ(性慾)のために使用できる責めは異なるものであるとの結論を出していたようだ。言い換えるなら、芝居、絵画、小説、捕縄術の中から、個人(私)の楽しみ(性慾)のために使用できる責め=SMを、伊藤晴雨自身が実践を通じて構築していったことになる(まさにこれが伊藤晴雨が近代SMの父と呼ばれる所以であある)。つけ加えると、いわゆる見た目が美しい、捕縄術の中の本縄に対する、伊藤晴雨の情熱を感じさせる資料は見いだせない。伊藤晴雨が重視したのは、あくまでも責められた女性の醸し出すエロチックな美しさであり、その美しさを、いかにうまく引き出せるかを研究していたわけである。

By Ugo

初稿:2021/09/26(引用文献未完)