奇譚クラブ
『奇譚クラブ』は、1946(1947)年(昭和21,22年)から1975年(昭和50年)までの長期間にわたって発刊されたアブノーマル雑誌で、戦後のSM文化に多大な影響を与えた。
概要
発行年・出版社
- 高倉一の『秘密の本棚Ⅰ』[1]の後書きによると、1946年(昭和21年)に不定期刊行物として最初に発行され、1951年(昭和26年)1月号から月刊誌化されたとある。
- 木本至の『雑誌で読む戦後史』[2]では、1947年(昭和22年)10月25日に創刊されたとある。秋田昌美もこの日付を用いている。
曙書房:大阪府堺市菅原通り4-30
発行人・編集人
歴史
カストリ紙時代
1946年(昭和21年)創刊説と1947年(昭和22年)創刊説がある(上記参照)。B5版で出版。出版元は曙書房。
1947年(昭和22年)12月号、『変態奇人号』で既に変態志向の兆し。
須磨参画時代(曙書房時代)
1951年(昭和26年)、1月号から月刊化。この頃、須磨が参画[1][注 1]。
1952年(昭和27年)、5月・6月合併号からA5版に変更し、『戦争と性慾特輯号』『倒錯の告白』などSM路線を開始[1]。7月号には『裸婦肉体美写真実費分譲』の案内に「・・責められる女の美の極致」、8月号に『責め女の写真実費分譲』と出る。
1952年(昭和27年)、『KK通信』を発行(1955年まで)。
1953年(昭和28年)、須磨が離脱。
1953年(昭和28年)11月号、濡木の『悦虐の旅役者』が青山三枝吉のペンネームで採用。挿絵は都築峰子。
1954年(昭和29年)、3月号が発売4日目で発禁処分。濡木痴夢男が真木不二夫で掲載した『魔性の姉妹』(八木静男挿絵)の内容が問題となった。
1955年(昭和30年)、5月号が摘発され、発禁処分。6月号〜9月号、12月号が休刊。
白表紙時代(天星社時代)
1955年(昭和30年)、発行元を天星社に変更して、10月号を出す[注 2]。11月号まで出して再び休刊。ここから1960年(昭和35年)5月号までを「白表紙時代」という。天星社時代は、さらに1967年(昭和42年)まで続く。
1956年(昭和31年)4ヶ月の休刊の後、4月号から復刊。11月号も休刊。
1958年(昭和33年)7月号に団鬼六の『お町の最後』が花巻京太郎の名で掲載。懸賞小説一位入選作品。
1960年(昭和35年)6月号より、カラー表紙に戻る。
1962年(昭和37年)8・9月合併号より、団鬼六の『花と蛇』が花巻京太郎の名で掲載。連載2回目は11月号、3回目は12月号。ここで休載。
1963年(昭和38年)7月号より、『花と蛇』再開。花巻京太郎から団鬼六にペンネーム変更。
1964年(昭和39年)、11月号から辻村隆の「カメラハント」が連載開始(1973年まで)。
暁出版時代
1967年(昭和42年)、暁出版株式会社に組織替え。
1975年(昭和50年)3月号以降は発刊されず。