箕田京二
箕田京二は吉田稔が奇譚クラブの編集人として用いていた名前。ただし、遅くとも1951年(昭和26年)5月号には須磨利之が挿絵画家の変名として箕田京二(他にも箕田京、箕田京太郎、魁京二)などを使っていたことを考えると、1951年-53年に須磨利之が奇譚クラブの絵師・編集人として用いていた名前を、須磨利之が抜けた後も、吉田稔がそのまま用いた可能性もある。あるいはこの時期、編集人箕田京二は須磨利之+吉田稔の編集者ユニットを表していたのかも知れない[1]。
主な出来事
1948年(昭和23年)、5月20日発行の5月号(第7號)には須磨利之の痕跡は見いだせない[2]。
1948年(昭和23年)、10月15日発行の通巻9号に須磨利之登場。辻村隆も信土寒郎の名前で登場。
1949年(昭和24年)、奇譚クラブ4月号別冊『第七天國探訪記』に魁京二の変名で挿絵。
1950年(昭和25年)、少なくとも奇譚クラブ7月号(第22集)には喜多玲子、須磨としゆき名の作品が多く見られる[2]。
1951年(昭和26年)、奇譚クラブ1月号(通巻26号)の早乙女晃『呪われた紅人魚』の挿絵を箕田京の変名で。
1951年(昭和26年)、奇譚クラブ2月号の吉丘垣根『珍談小説 耳掃除異聞』の挿絵を箕田京太郎の変名で。
1951年(昭和26年)、奇譚クラブ3月号の笠置良夫『泥沼に喘ぐ女』の挿絵を箕田京二の変名で。その後、箕田京二の変名に固定された模様。
1951年(昭和26年)、奥付は11月号まで「編集兼発行人:吉田稔」
1951年(昭和26年)、奇譚クラブ12月号の奥付が、「発行人:吉田稔、編集人:箕田京二」と変わる。
1951年(昭和26年)、奇譚クラブ1月号から月刊化。
1952年(昭和27年)、奇譚クラブ5月・6月合併号からA5版に変更。
1953年(昭和28年)、奇譚クラブ6月号で『松井籟子女史を囲んで』と題された第二回 読者座談会の記録に「本誌側 司会者=箕田京二と高月大三」。同年3月15日、大阪で開かれたとある。
1953年(昭和28年)、奇譚クラブ7月号から須磨利之の作品が多く見られなくなる。人気連載であった松井籟子の『淫火』の挿絵も喜多玲子から栗原伸に変わっている。ただし以降も、奥付は「発行人:吉田稔、編集人:箕田京二」のまま。