壮士芝居

提供:SMpedia
2011年1月8日 (土) 20:29時点におけるU (トーク | 投稿記録)による版 (ページの作成: ==概要== '''書生芝居'''とも呼ばれ、旧劇と明治中期の為政者の圧迫に反抗して生まれた芝居の一種。中江兆民らの自由民権運動に連…)
(差分) ← 古い版 | 最新版 (差分) | 新しい版 → (差分)

概要

書生芝居とも呼ばれ、旧劇と明治中期の為政者の圧迫に反抗して生まれた芝居の一種。中江兆民らの自由民権運動に連動した文化運動。後の新派に発展していく。伊藤晴雨が、壮士芝居の仲で、頻繁に責めのシーンが使われたことを指摘している[1]

歴史

1889年(明治22年)6月12日[注 1]、大阪新明座[注 2]で公演で角藤定憲を座長として、中将姫の雪責め[1]

1891年(明治24年)11月、浅草吾妻座で依田学海の済美館「男女合同改良演劇」による壮士芝居「政党美談淑女の操」が上演。この芝居に責め場があったかどうか不明だが、小説雑誌「都の花」1888年(明治21年)10月-12月号に連載された際、小林永濯が責め絵的な挿絵を描いている[2]

1903年(明治36年)頃、新派という言葉が生まれる。

トピックス

  • 壮士』とは、自由民権運動の活動家の呼び名。

引用文献

  1. 1.0 1.1 伊藤晴雨其の頃を語る(一) 新派劇の責場奇譚クラブ1953年(昭和28年)6月号, p134
  2. 伊藤晴雨其の頃を語る(三) 明治期の被縛画家奇譚クラブ1953年(昭和28年)8月号, p28

注釈

  1. Wikipediaでは1888年(明治21年)12月となっている。
  2. Wikipediaでは新町座となっている。

お役たちweb

つながり

伊藤晴雨 SMショーの歴史