3日で分かるSMの歴史

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2015年8月19日 (水) 12:27時点におけるU (トーク | 投稿記録)による版

「SM」の意味

「SM」の「S」は「サド」を意味し、「M」は「マゾ」を意味する。それぞれ「サディズム」「マゾヒズム」から由来する。「サディズム」「マゾヒズム」は1886年(明治19年)にドイツの精神医学者クラフト=エビングが草案した言葉で、彼はこれらの言葉を18世紀に実存したフランスのマルキ・ド・サド、および19世紀オーストラリアのレーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホの名前からとっている。簡単にいってしまえば、「サド=イジメる側の人」「マゾ=イジメられる側の人」で、人間関係のパワー・ダイナミクス意味する言葉と理解すればよい。日本では、「私、サドです」「私、Mです」といった表現をするが、英語圏では「TopとBottom」「DomとSub」などの表現が用いられる、なので「I am M」では、相手がよほどの日本通でないかぎり通じない。同様に「I am masochist」では、かなりディープなマゾ性をもつ人と思われるので要注意である。「SM」そのものの単語も英語圏には存在するが、かなり強いサド性・マゾ性を意味する時に用いるようで、どちらかというとBDSMという略号が、日本の「SM」に近いと思われる。

SMという言葉の誕生の誕生は意外と新しく、1950年代の前半に同時発生的にあちらこちらで使われ出した。面白いことに当初は「SM」と「MS」の両方が使われていたようだが、やがて「SM」に落ち着いている。1969年(昭和44年)ぐらいには、「SMマガジン」「SMセレクト」「SMファン」などタイトルに「SM」を含む雑誌が相次いで創刊される。

戦後70年のSM史

1940年代(昭和15年〜昭和24年)

 1945年(昭和20年)8月の第二次世界大戦の終戦と共に、それまで抑圧された生活を強いられていた人々のエネルギーが一気に爆発します。早くも同年の8月末には、日本SMの父とも言える「伊藤晴雨***(いとうせいう)」が、浅草の「東京倶楽部*(とうきょうくらぶ)」という映画館の地下で、『浅草名物見世物展』と題した挿絵芝居を開催していたという記録があります。ここでは、歌舞伎作品の中でも、責め場で有名な「紅皿欠皿*(べにざらかけざわ)」の「伊藤晴雨」の手による絵が展示されていたようです。

 戦争末期にはほとんどの出版活動が停止しており、人々は活字に飢えていました。終戦後まもなく、後に「カストリ雑誌***(かすとりざっし)」として分類される、粗悪な紙を用いたページ数の少ない雑誌が全国各地で非常にたくさん創刊され、そのほとんどは、すぐに消えていきました。後に、SM発展の大きな柱となる「奇譚クラブ*** (きたんくらぶ) 」も、このような「カストリ雑誌」の1つとして、1947年(昭和22年)10月に大阪から創刊されています。ただし、この段階では、特にSMに焦点をあてた雑誌というわけではなく、変わった話(奇譚)を集めた、典型的な「カストリ雑誌」の1つにすぎません。

 終戦の2年後にあたる、1947年(昭和22年)1月には、現在の新宿丸井本店に相当する場所に存在した「帝都座*(ていとざ)」において、ストリップの原点といえる「額縁ショー*(がくぶちしょー)」がおこなわれ、大変な人気を集めました。これは、半裸の女性が絵のように動かずに、大きな額の中で立っているというたわいのないショーでしたが、戦後すぐのその時期としては、画期的な出来事であったことが容易に想像できます。  おなじく「帝都座」で、同年の8月に、『肉体の門*(にくたいのもん)』と題する芝居が、やはり大変な人気を集めて、ロングラン上演されました。ここでは、乳房を露わにした女性が、両手首縛りで吊り上げられて、折檻を受けるシーンが見せ場として含まれており、戦後のSMショーの原点ともいえる作品です。

 この頃は、雑誌と芝居・ショーが人々の娯楽の中心でした。「浅草ロック座*(あさくらろっくざ)、「百万弗劇場*(ひゃくまんどるげきじょう)」、「公園劇場*(こうえんげきじょう)」などの多くの劇場が浅草などに新規開設され、色気たっぷりのショーで人気を集めていました。

 まだまだ人々の生活は安定せず、混乱とエネルギーに満ちていたのが1940年代の後半の5年間です。

引用文献

注釈

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