小林清親
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こばやし きよちか、1847年(弘化4年)9月10日-1915年(大正4年) 11月28日
概要
月岡芳年、豊原国周と共に明治浮世絵の三傑と称される。浮世絵のどの流派にも属さず、西欧の石版画は銅版画の影響を受けた独自の『光線画』を確立。『新白石噺』に逆吊りを含める責め場の絵が含まれる[1]。
別名
english、方円舎、真生、真生楼
略歴
1847年(弘化4年)9月10日、本所御蔵屋敷の幕臣の家にに生まれる[3][2]。
1863年(文久3年)頃、家督を継ぐ。
1868年(慶応4年)、鳥羽・伏見の戦いに加わり、敗走。江戸開城に立ち会う[3]。
1869年(慶応5年)、徳川慶喜に従つて静岡移住[3]。
1874年(明治7年)、横浜で下岡蓮杖に写真術を学ぶ[3]。
1874年(明治7年)、地方を転々としている際、絵描きを志し、西洋画をチャールズ・ワーグマンに学ぶがすぐに喧嘩別れ。上京し、日本画を河鍋暁斎や柴田是真、淡島椿岳に学ぶ[2]。
1876年(明治9年)、絵師としてデビュー[2]。
1876年(明治9年)9月1日、小林清親の洋風東京名所絵が出版され始める。『光線画』として人気。
文明開化の反動で江戸回帰の風潮。西欧風の『光線画』から『風刺画』に移行[3]。
1894年(明治27年)、日清戦争時には『戦争絵』を描く[3]。
エピソード
- 伊藤晴雨『其の頃を語る(三) 明治期の被縛画家』奇譚クラブ1953年(昭和28年)8月号, p28で解説されている。
- 明治初期の作品には月岡芳年の模倣が多い[1]。
- 『新白石噺』は上下2冊の合巻で女の責場が7,8点含まれる。洋画風逆吊りの作品が含まれる[1]。門人の永興がこれを模写して番町皿屋敷のお菊に置き換え講談雑誌『百花園』に挿絵として発表している[1]。
- 月岡芳年、豊原国周と共に明治浮世絵の三傑の一人[2]。
- しばしば「最後の浮世絵師」、「明治の広重」と評される[2]。
- 弟子に井上安治、田口米作、金子光晴、土屋光逸[2]
代表作
引用文献
注釈