青木順子
あおき じゅんこ、(生年月日不明)。60年代から70年代のパフォーマー。 向井一也のパートナーとしてストリップ劇場や小劇場でのSM劇の受け手。辻村隆『SMカメラ・ハント』第1回目のモデル。
概要
パフォーマー。1964年(昭和39年)頃から向井一也のパートナーとしてストリップ劇場などの舞台でSMショーをおこなっていた。その舞台はたびたび奇譚クラブでも紹介され、やがて奇譚クラブの辻村隆を中心に「青木順子後援会」が結成された。辻村隆のSMカメラ・ハント』第1回目のモデルである。辻村隆の記事では、1964年(昭和39年)頃の作品は、青木順子が作・演出をしていたと書かれてるが、実際には向井一也が主導権を握っていたのかもしれない。1974年(昭和49年)頃には向井一也と「オリジナルの会」を結成しており、『サディストの告白』などのSM劇を小劇場で上演している。長田英吉も「オリジナルの会」の影響を受けたとされている。1974年(昭和49年)8月に、上京前の玉井敬友が大阪の自身の劇場『スキャンダル』に向井一也(と恐らく青木順子)を招聘している。
別名
略歴
1964年(昭和39年)、奇譚クラブ5月号、芳野眉美『ガン作マニアのノート』で紹介[注 1]。
1964年(昭和39年)、奇譚クラブ11月号の辻村隆『SMカメラ・ハント』、第1回目のモデル。
1964年(昭和39年)11月、東京都立川市の文化ミュージックに出演[2]。
1965年(昭和40年)、奇譚クラブ2月号、p32辻村隆サロン楽我記に「青木順子後援会」のこと。全国巡業をしている様子。
1965年(昭和40年)、奇譚クラブ4月号に辻村隆の「青木順子だより」
1965年(昭和40年)7月、6月の京都に引き続き大阪夕凪橋のダイコウミュージックでベトナム動乱にちなんだSM劇[3]。
1965年(昭和40年)、奇譚クラブ10月号, p16に東山映史『サジズムの極致 「青木順子」京で大いに活躍』で千中ミュージックの公演を紹介。
1965年(昭和40年)、暮れの頃、「千中ミュージックを定席ににして向井一也と『本日休診』を上演」とある[4]。
1966年(昭和41年)、奇譚クラブ1月号, p19の東山映史「映画通信」に「千中ミュージックを定席として、新作『本日休診』を上演して好評。向井一也が精神科の医者役」とある。
1966年(昭和41年)、奇譚クラブ2月号, p157に丸鬼頭佐渡『青木順子さんについて』。1965年(昭和40年)7月の大阪ダイコウミュージックでの『気の弱い男の愛と死』『内気な男の愛と死』での向井一也との舞台の詳細を報告。
1966年(昭和41年)、奇譚クラブ4月号, p23に岩木一夫『「青木順子ショーについて」呼び掛け』。まだ関西方面を巡業しているので早く関東に来て欲しいとの希望[注 2]。
1967年(昭和42年)、奇譚クラブ11月号の「編集部だより」に「大阪府下を従業しているとの読者からの連絡」「水責めと蝋責めが中心」
1967年(昭和42年)、奇譚クラブ11月号, p246に「青木順子のサディズム・ショウ」。野田阪神の吉野劇場での観劇レポート。
1974年(昭和49年)、奇譚クラブ9月号, p242に「青木順子『「サディストの告白』と、その部台裏』。新宿アートヴィレッジでの公演の様子。