「佐々木カネヨ」の版間の差分

提供:SMpedia
編集の要約なし
1行目: 1行目:
[[画像:sasakikaneyo.jpg|250px|thumbnail|佐々木カネヨ]]
[[画像:sasakikaneyo.jpg|250px|thumbnail|佐々木カネヨ]]
[[画像:sasakikaneyo2.jpg|150px|thumbnail|[[佐々木カネヨ]]をモデルとしたのではと考えられている[[竹久夢二]]の『'''白木蓮と乙女'''』(1919頃)]]
[[画像:sasakikaneyo2.jpg|150px|thumbnail|[[佐々木カネヨ]]をモデルとしたのではと考えられている[[竹久夢二]]の『'''白木蓮と乙女'''』(1919頃)]]
[[画像:sasakikaneyo3.jpg|250px|thumbnail|[[佐々木カネヨ]]をモデルとした[[藤島武二]]の『'''官女と宝船'''』(1920)[[竹久夢二]]と交際していた期間にも、何度か[[藤島武二]]のもとを訪れており、その際に描かれた作品と考えられている<ref name="akitabizi">『'''描かれた秋が美人'''』展の図録より。</ref>]]


'''佐々木カネヨ'''(ささき かねよ)、1904年(明治37年)-不明。大正時代のモデル。「お葉」として[[竹久夢二]]の作品で有名だが、[[竹久夢二]]の前には[[伊藤晴雨]]の愛人となり、責め絵のモデルをしていた。その前は藤島武二のモデル。
'''佐々木カネヨ'''(ささき かねよ)、1904年(明治37年)-不明。大正時代のモデル。「お葉」として[[竹久夢二]]の作品で有名だが、[[竹久夢二]]の前には[[伊藤晴雨]]の愛人となり、責め絵のモデルをしていた。その前は[[藤島武二]]のモデル。
==概要==
==概要==
==別名==
==別名==
10行目: 11行目:
1904年(明治37年)、秋田県に生まれる。
1904年(明治37年)、秋田県に生まれる。


1916年(大正5年)、上京し、東京美術学校のモデルを始める。藤島武二のモデルをつとめる。
1916年(大正5年)、上京し、東京美術学校のモデルを始める。[[藤島武二]]のモデルをつとめる。


1916年(大正5年)頃、[[伊藤晴雨]]の愛人となり、責め絵のモデルとなる。
1916年(大正5年)頃、[[伊藤晴雨]]の愛人となり、責め絵のモデルとなる。

2018年8月12日 (日) 14:04時点における版

佐々木カネヨ
佐々木カネヨをモデルとしたのではと考えられている竹久夢二の『白木蓮と乙女』(1919頃)
佐々木カネヨをモデルとした藤島武二の『官女と宝船』(1920)竹久夢二と交際していた期間にも、何度か藤島武二のもとを訪れており、その際に描かれた作品と考えられている[1]

佐々木カネヨ(ささき かねよ)、1904年(明治37年)-不明。大正時代のモデル。「お葉」として竹久夢二の作品で有名だが、竹久夢二の前には伊藤晴雨の愛人となり、責め絵のモデルをしていた。その前は藤島武二のモデル。

概要

別名

永井兼代、永井カ子ヨ、およう、お葉、鈴木かねよ

略歴

1904年(明治37年)、秋田県に生まれる。

1916年(大正5年)、上京し、東京美術学校のモデルを始める。藤島武二のモデルをつとめる。

1916年(大正5年)頃、伊藤晴雨の愛人となり、責め絵のモデルとなる。

1918年(大正7年)頃、伊藤晴雨と別れる。

1919年(大正8年)、本郷・菊富士ホテルに寄宿していた竹久夢二のモデルを始める。

1921年(大正10年)、竹久夢二と渋谷に居をかまえる。

1924年(大正13年)、竹久夢二が設計した世田谷「少年山荘」に移る。出産するが夭折。

1925年(大正14年)、自殺未遂。竹久夢二と別れる。

トピック

  • 2002年(平成14年)、団鬼六原作になる伊藤晴雨の伝記『外道の群れ』の映画化作品「およう」が松竹系で公開。監督は関本郁夫、出演は竹中直人ら。
  • 2014年(平成26年)8月、「ビックコミック」に倉科遼・作、ケン月影・画の『万華鏡~抒情と緊縛~』が連載開始。佐々木カネヨを中心とした伊藤晴雨と竹久夢二の愛憎劇。

関連作品

引用文献

  1. 描かれた秋が美人』展の図録より。

注釈

お役たちweb

つながり

伊藤晴雨