「100万人のよる」の版間の差分
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2016年7月21日 (木) 19:04時点における版
ひゃくまんにんのよる。 1956年(昭和31年)に季節風書店より創刊、1966年頃まで続いた総合エロ雑誌。高橋鐵、花巻京太郎(団鬼六)、沖渉二、笠間しろう等が寄稿。
概要
1956年(昭和31年)に季節風書店より創刊された雑誌。創刊当初は「性科学を中心とした図解風俗誌」とアピールポイントが記されていた。徐々に成人男性向けの画報雑誌へと変化を遂げていく。
発行年・出版社
1956年(昭和31年)4月〜1966年(昭和41年)、季節風書店、新風出版社、プレイグラフ社と出版元が変わる。
発行人・編集人
- 1956年(昭和31年)4月号は、発行・編集人:山田貞子とある。
- 1961年(昭和36年)1月号は、発行人:榎本一男、印刷人:森高繁雄で季節風書店とある。
- 1962年(昭和37年)12月号は、発行人:渡辺勤、印刷人:北川清で株式会社新風社内季節風書店とある。
主な出来事
1956年(昭和31年)4月、季節風書店より創刊。
1957年(昭和32年)、品切れバックナンバーを求める読者の要望に応えるべく、既刊号の中から一部分ずつを再編集した合冊版を応急策として発行[注 1]。
1958年(昭和33年)、11月号に高木彬光や堀紋之助を招いた座談会「モダンいれずみ 医療の刺青から恥部の刺青まで」を掲載。
1959年(昭和34年)、姉妹誌『世界裸か美画報』創刊[注 2]。
1961年(昭和36年)、11月号に花巻京太郎『美女が絶叫する変態観劇パーティー』。
1963年(昭和38年)11月、『100万人のよる 11月増刊 甘い写真第1集』発行[注 3]。
1966年(昭和41年)、9月号より季節風書店から新風出版社へと発行元が変わる。
エピソード
- 創刊号には「百万人が愛読できる雑誌にしたい」という版元の願いが記されている[1]。
- よく執筆していたのが青山敏樹、
- よく描いていた絵師は歌川大雅、沖渉二、笠間しろう
- 意外な執筆者が高橋鐵、花巻京太郎、黒岩松次郎
- 女性探偵の佐藤みどり[注 4]。
- 性豪作家時代の胡桃沢耕史が清水正二郎の名前で読物を発表している。
- カメラマンとして名前があるのが吉田潤、吉田久、広岡敬一、加納勝彦、平田明
- 伴田良輔『100万人のよる伝説』(自由国民社, 1996)
- 伴田良輔『100万人のよる伝説 この道抜けられません』(自由国民社, 1996)
- 伴田良輔『100万人のよる伝説 狂い咲きモンモン号』(自由国民社, 1997)
- 「100万人のよる」に関わっていた人物が松尾書房を創立[2]。
- 『100万人のよる臨時増刊 よるとひるの欲望』は奥付がなく、『うごく顔』創刊号の20ページから272ページまで丸ごと再録している。
引用文献
- ↑ 季節風書房編集局「創刊のことば」
- ↑ 川本耕次『昭和ポルノ史 第三章 初期通販本と松尾書房』