「館淳一」の版間の差分
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2015年1月20日 (火) 14:03時点における版
たて じゅんいち、1943年(昭和18年) -
概要
文筆家。日本推理作家協会、日本文芸家クラブ会員。女装子の世界にも造詣が深い。海外SM文献の蒐集を趣味としており、それがスタイリッシュな作風の確立に影響を与えたものと思われる。
別名
狷介老人、ぐらんぴ
略歴
1943年(昭和18年)、北海道稚内市に生まれる。
1960年代、日本大学藝術学部放送学科卒業。
1975年(昭和50年)、『別冊SMファン』の『凶獣は闇を撃つ』で作家デビュー。
1981年(昭和56年)、最初の単行本『姦られる』(二見書房)を発刊。
1996年(平成8年)1月1日、館淳一がパソコン通信の「NIFTY-Serve」に「館淳一HP[注 1]」を開設。同年に「館淳一パティオ」へと。
エピソード
- 1975年(昭和50年)頃は「創刊されたばかりの日本版PLAYBOYのフリー編集者をやっており、読者からのQ&A欄をまかされていた」「創刊直後のQ&A欄は読者からの質問が少ないので編集部のほうで質問を創作しなければならない事態が多々ありまして、それなら自分が興味ある質問を作ってしまえとばかり「女性の縛り方を教えてください」という質問をひねり出し、それの回答者として私が長田師に依頼して、スタジオにモデルと共に来ていただき、そこで実際にいくつかの縛りを披露してもらい、それを撮影して誌面に数カット載せた」「 その時に私も縄をもってモデルさんを縛りましたんで(それをやりたかった)、私が「縄の師は長田英吉さん」と吹聴しているのは間違いではないのです。」「後日談があり、日本版 PLAYBOY はアメリカの PLAYBOY 誌の看板を借りていて編集内容もコントロールされていたのですね。Q&A欄に緊縛写真が載ると、本国版から「ヒュー・ヘフナーはことの他S&Mが嫌いだ。よって本国版はSM関係はご法度である。日本版もSMは避けるように」とお達しというかお𠮟りがありました。私が編集に興味なくしちゃったのはそれもあるんですねえ。ちなみにアメリカ版 PLAYBOY はベティ・ペイジを早くからモデルに起用していましたが、彼女はあくまで「ピンナップ・クイーン」で、ボンデージ・クイーンとしてのベティは「存在しない」という扱いになっています。」[1]。
- 小学生の頃に見た「人間豹」[注 2]の挿絵に興奮し、その挿絵を半世紀以上も探求していたと言う。数名の探偵小説ファンが互いに連絡を取り合った結果、2009年の夏に該当挿絵が発見され、無事にコピーを入手する事が出来た。
- 子供の頃、漁業会社を経営した父親の蔵書にあった『新青年』を読んでいたと言う。
- 放送学科の卒業試験直前、同期の森本レオから「ノートを貸してくれ」と頼まれた事がある。
- ペンネームの由来については、2005年10月に行われたインタビューで詳しく語っている。
代表作
- 館淳一『未亡人母・黒い下着の罠』(フランス書院, 1996)
- 館淳一『いろ艶筆』(東京スポーツ)
館淳一研究本
- 八本正幸『エロティック・ミステリーとして読む館ワールド』in 『『新青年』趣味』第12号