「岩佐又兵衛」の版間の差分
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2014年10月25日 (土) 21:28時点における版
いわさ またべえ、1578年(天正6年)-1650年(慶安3年)6月22日。江戸初期(17世紀初)の絵師。織田信長に仕えていた荒木村重の子。「浮世絵の祖」とも称される。『浄瑠璃物語絵巻』には捕縄風に縛られ簀巻き死罪の場面が。
概要
江戸時代初期の絵師。浮世絵の祖とも称される。
別名
浮世又兵衛、岩佐又兵衛勝以(かつもち)、吃の又平
略歴
1578年(天正6年)、織田信長に仕えていた荒木村重の子、あるいは孫として生まれる[1]。
1578年(天正6年)、荒木村重は織田信長に謀反。
1580年(天正8年)頃、京師西本願寺に庇護され、母方の岩佐姓を名乗る[1]。
1578年(天正15年)頃、豊臣秀吉が主催した北野大茶会を見る[1]。
成人後、織田信雄に仕える[1]。
二条昭実の御所に出入りし、幅広い教養を身につける[1]。
狩野内膳に絵を習う。土佐派の絵師からも習う[1]。
京都時代から既に「工房」をもち、複数の絵師で分担作業。
1615年頃、京都から福井に移る。藩主松平忠直の文化人招聘の一貫[1]。
福井在住時に『山中常磐物語絵巻』『浄瑠璃物語絵巻』を制作。
1637年(寛永14年)、徳川家光の娘の婚礼調度制作のために江戸に移る。妻子は福井に残る[1]。
江戸在住時に『堀江物語絵巻』を制作。
1650年(慶安3年)6月22日、江戸で永眠。
エピソード
- ダイナミックな人物表現が特徴。
- 歌舞伎・文楽の『傾城反魂香』[注 1]の主人公「吃又」こと浮世又兵衛のモデル。片岡仁左衛門のお家芸「片岡十二集」の一つ。
- 岡田茂吉により戦後蒐集された。
- 「浮世絵をつくった男」「浮世絵の源流」「浮世絵の祖」などと呼ばれる。
- 「劇画の開祖」とも称される。
代表作
- 『山中常磐物語絵巻』
- 『浄瑠璃物語絵巻』
- 『堀江物語絵巻』
作品集
矢代勝也『岩佐又兵衛作品集―MOA美術館所蔵全作品』(東京美術, 2013.10.1)
引用文献
注釈
- ↑ 近松門左衛門の作。「土佐将監閑居の場」では死を決して自画像を石の手水鉢に描くと、画像が裏へ抜け出る奇跡が起こる。その功で、土佐の名字を許される。