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1892年(明治25年) | 1892年(明治25年)、東京に生まれる。7世松本幸四郎の甥にあたる。 | ||
1910年代、東京帝国大学ドイツ文学科<ref group="注">在学中にゲーテの『若きエルテルの悲しみ』を翻訳。</ref>を卒業後、三菱合資会社に入社。 | 1910年代、東京帝国大学ドイツ文学科<ref group="注">在学中にゲーテの『若きエルテルの悲しみ』を翻訳。</ref>を卒業後、三菱合資会社に入社。 | ||
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1932年(昭和7年)頃、『文藝春秋』の座談会で菊池寛が秦豊吉に小林一三<ref group="注">こばやし いちぞう。1873年(明治6年)-1957年(昭和32年)。1914年(大正3年)宝塚劇場で宝塚少女か歌劇をヒットさせた。1937年(昭和12年)には東宝映画を設立し、これは1943年に現在の東宝になる。</ref>を紹介<ref name="The">『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)</ref>。 | 1932年(昭和7年)頃、『文藝春秋』の座談会で菊池寛が秦豊吉に小林一三<ref group="注">こばやし いちぞう。1873年(明治6年)-1957年(昭和32年)。1914年(大正3年)宝塚劇場で宝塚少女か歌劇をヒットさせた。1937年(昭和12年)には東宝映画を設立し、これは1943年に現在の東宝になる。</ref>を紹介<ref name="The">『特集:ヴィーナスの誕生』季刊『the 座』第22号(こまつ座, 1992)</ref>。 | ||
1934年(昭和9年) | 1934年(昭和9年)1月、小林一三に誘われ、三菱商事を退社し、総支配人として東京宝塚劇場の開設に尽力。 | ||
1936年(昭和11年)、日劇ダンシングチーム(NDT)の初公演を指揮<ref group="注">、1944(昭和19)年3月1日に政府によって公演停止命令が命じられるも、1945(昭和20年)12月復活[http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/78827c7eec87d0b7a7b005e6d709ae5a web情報]</ref>。 | |||
1938年(昭和13年)、小林一三が後楽園スタヂアムを買収し、東宝系列になる。秦豊吉は専務取締から、戦中に会長職。戦後も会長職を続ける。 | 1938年(昭和13年)、小林一三が後楽園スタヂアムを買収し、東宝系列になる。秦豊吉は専務取締から、戦中に会長職。戦後も会長職を続ける。 |
2010年1月23日 (土) 14:54時点における版
はた とよきち、1892年(明治25年)-1956年(昭和31年)
活動内容
仕掛人。実業家。執筆家。
別名
丸木砂土
略歴
1892年(明治25年)、東京に生まれる。7世松本幸四郎の甥にあたる。
1910年代、東京帝国大学ドイツ文学科[注 1]を卒業後、三菱合資会社に入社。
1919年(大正7年)、三菱合資会社(後の三菱商事)のベルリン支店開設のため訪独[注 2]。
1926年(昭和元年)、ドイツから帰国。三菱商事の総務部。
1929年(昭和4年)、レマルクの『西部戦線異状なし』翻訳作品が大ヒット。
1930年(昭和5年)、『性科学全集 第一巻』の序文を執筆。
1932年(昭和7年)頃、『文藝春秋』の座談会で菊池寛が秦豊吉に小林一三[注 3]を紹介[1]。
1934年(昭和9年)1月、小林一三に誘われ、三菱商事を退社し、総支配人として東京宝塚劇場の開設に尽力。
1936年(昭和11年)、日劇ダンシングチーム(NDT)の初公演を指揮[注 4]。
1938年(昭和13年)、小林一三が後楽園スタヂアムを買収し、東宝系列になる。秦豊吉は専務取締から、戦中に会長職。戦後も会長職を続ける。
1946年(昭和21年)頃、帝都座5階劇場を新しくレビュー劇場としてオープンすべく準備の指揮。当時帝都座の社長であった。
1947年(昭和22年)、後楽園スタヂアムで昭和天皇・皇后と野球を観戦[1]。野球ブームの仕掛け人。
1950年帝国劇場社長
エピソード
- マルキ・ド・サドにあやかり「丸木砂土」のペンネーム。
- 谷崎潤一郎の『友田と松永の話』は秦豊吉がモデル。
作品
- 好色独逸女 文藝春秋出版部 1928
- 偉人粋人 学風書院 1956
- 『世界猟奇全集』翻訳
- 『西部戦線異状なし』翻訳1929