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1979年(昭和54年)1月、'''DXブーレン'''<ref group="注">大学後輩の久美夫婦と。久美がK・朝子として唯一のタレント。</ref>を結成。
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1979年(昭和54年)3月、芸能プロダクション原プロの原社長に事務所(台東区浅草・第二松倉荘<ref group="注">かつて[[浅草フランス座]]の踊り子の寮だった。</ref>203号)を提供してもらい企画集団『'''DXブーレン'''』の本格的始動。
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2010年12月12日 (日) 16:09時点における版

ファイル:Kawakami.jpg
川上譲治

かわかみ じょうじ、1950年(昭和25年)ー

概要

ストリップ演出家。写真家。70年代に照明係としてストリップ業界に入る。当時の即物的なストリップに疑問を感じ、ショーアップした企画モノのストリップを次々に考案。アングラ劇団、前衛舞踏との接点も多く、ストリップ、演劇、SMが融合したユニークなジャンルを確立。ショーアップ大宮で始めたSM大会は、DX歌舞伎町SM大会として川上譲治の手を離れた現在もSM界の大きな恒例イベントとして続いてる。

別名

ジョウジ川上

略歴

1950年(昭和25年)、島根県浜田市生まれ。

1975年(昭和50年)、大阪芸術大学写真学科を中退[1]

1976年(昭和51年)4月、新宿のモダンアートに照明係として入社[1]

1977年(昭和52年)7月、営業提携の話が持ち上がった石和ミュージックホール(山梨県)に転勤[注 1]

1978年(昭和53年)7月、石和ミュージックホールとの提携話は破談となり、モダンアートの系列の大宮DX劇場に転勤[1]。名義社長となる[注 2]

1978年(昭和53年)10月、全国的レベルでのストリップの取り締まりが始まる。

1978年(昭和53年)12月、モダンアートの系列の川口DX劇場の支配人、続くオーナーである萩本の逮捕を受け川口DX劇場に転勤[1]

1979年(昭和54年)1月、オーナーによる「脱マナ板ショー」宣言[1]

1979年(昭和54年)1月、DXブーレン[注 3]を結成。

1979年(昭和54年)2月21日、初の川上譲治による企画『ジャズバンドとストリップのジャムセッション』[注 4]。ショーは成功したがオーナーとの意見が合わず退職・独立を決意[1]

1979年(昭和54年)3月、芸能プロダクション原プロの原社長に事務所(台東区浅草・第二松倉荘[注 5]203号)を提供してもらい企画集団『DXブーレン』の本格的始動。

1979年(昭和54年)4月、TBSが『DXブーレン』の特集企画が持ち上がり、流山児祥を説得してシナリオを書いてもらう。4月16日、モダンアートを借りて「オカマ&ストリッパー 濡れた花弁に弾丸を![注 6]」を上演。

1979年(昭和54年)6月、鶴見新世界で『白夜&花[注 7]』によるドラマ性のある白黒ショーをプロデュース[1]

1981年、「ポラロイドショー」を発案[2]

1982年(昭和57年)、「個室ナマ板ショー」で公然わいせつ罪共謀共同正犯で逮捕[2]

1984年(昭和59年)、新宿モダンアートでの「シアターパラダイス」を経て、「シアターニューモダンアート」を開館[2]

1985年(昭和60年)、流山児祥演出による「肉体の門1985年」アングラストリップレビュー公演をプロデュース

1985年(昭和60年)、新風営法の施行と共に一時引退。運送業を興す[2]

1986年(昭和61年)、「ラストストリップ」池袋スカイ劇場のさよなら興行をプロデュース。

1990年(平成2年)頃、ストリップ界に復帰。大宮の劇場や「鶴見新世界劇場」[2]

1992年(平成4年)、 「恐山の女」アングラストリップ劇公演をプロデュース

1993年(平成5年)頃、再び一時引退。タクシーの運転手をしながら亜細亜大学法学部法律学科社会人入学[2]

1997年(平成9年)、 亜細亜大学法学部法律学科卒業

1998年(平成10年)、 新生・鶴見新世界劇場(神奈川県)にて、おもしろ企画興行をプロデュース

2001年(平成13年)、ショーアップ大宮劇場の社長となる。

2002年(平成14年)、「ビックダンス」ソロダンサーダンス大会興行をプロデュース

2003年(平成15年)11月1日、『ザ・SMワールド』をプロデュース。以後、定期的にSM興行。

2004年(平成16年)、「ホモセクシャル」男のストリップ興行をプロデュース

2005年(平成17年)2月、ショーアップ大宮劇場の社長を退く。

2005年(平成17年)、大阪芸術大学大学院芸術製作研究科写真専攻社会人入学

2006年(平成18年)、DX歌舞伎町「DX歌舞伎ファイナル伝説」のプロデュースを最後にストリップ界から引退。

2008年(平成20年)、故郷の島根県浜田に戻り、介護タクシーの運転手をやりながら写真展などを開催。

2010年(平成22年)3月2日-7日、『ストリップ魂 巡業展』於 gallery G (広島)

2010年(平成22年)10月29日-11月24日、『裸的群像伝』於 ギャラリー「あーとすぺーす」(京都嵐山)

2010年(平成22年)12月1日-24日、『裸的群像伝1976-2005』於 ビア&カフェ BERG (新宿)

2011年(平成23年)1月15日-28日、『極私的記憶写真1976-2005』於 石正美術館 (浜田)

エピソード

  • モダンアートに入社するまで、ストリップは観たことがなかった[1]
  • 川上譲治が入社した時のモダンアートのオーナーは「萩本」[1]
  • 考案した新企画は「ポラロイドショー」、「聖水ショー」、「ピーピングショー」、「ストトルショー」、「マン拓ショー」、「混浴ショー」、「オカマとストリッパーのレズビアンショー」、「生板どろんこレスリングショー」他。
  • ショーアップ大宮の雇われ社長であった。

 

代表作

著書・写真集

SMショープロデュース

参考資料

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 川上譲治さらばストリップ屋』(朝日新聞社, 1988)
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 Web Sniper 「ジョウジ川上55歳の決意」

注釈

  1. 当時、石和には石和ミュージックホール石和温泉劇場があり、どちらも温泉客相手。劇場公演と、旅館に出向いの出前ストリップ興業(後者は非合法)。
  2. ストリップ劇場における名義社長は、警察の手入れがあった場合、責任者として取り調べを受ける役割で、手入れがオーナーにまで及ばないようにするための防波堤の役目を果たしていた。
  3. 大学後輩の久美夫婦と。久美がK・朝子として唯一のタレント。
  4. 踊り子のみっちー桜、司会者の辺ひろし、日本大学のジャズバンド「スィング」。スタッフはモダンアート支配人の柴田、大宮DX劇場照明係の村松、外人専門の芸能プロダクションのマネージャー有光、大宮DX劇場で常打ちしていたポルノ劇団『五人囃子』の主宰者の一色、カメラマンの郡司。
  5. かつて浅草フランス座の踊り子の寮だった。
  6. 出演は女優の林テレサとゲイバー「シンドバット」の春彦。
  7. 後の根暗童子とそのパートナーの美術大学学生。インドに行く資金作りのために出演。約2ヶ月間の小屋周りで200万円の資金を作る。

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