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2010年11月11日 (木) 08:03時点における版
『奇譚クラブ』(Kitann Club)は、1947年(昭和22年)10月[1][2][注 1]から1975年(昭和50年)3月までの28年の長期間(通刊325号)にわたって発刊されたアブノーマル雑誌で、戦後のSM文化に多大な影響を与えた。
概要
発行年・出版社
1947年(昭和22年)10月〜1955年(昭和30年)9月、曙書房
1955年(昭和30年)10月〜1967年(昭和42年)、天星社
1967年(昭和42年)〜1947年(昭和22年)10月、暁出版
発行人・編集人
発行人は創刊から終刊まで吉田稔。
編集人は
吉田稔:1947年(昭和22年)10月〜1951年(昭和26年)11月
箕田京二:1951年(昭和26年)12月〜1968年(昭和43年)7 or 8月
杉原虹児:1968年(昭和43年)8 or 9月〜1975年(昭和50年)3月
歴史
カストリ紙時代
1947年(昭和22年)10月25日(11月号)[注 1][注 2][注 3]、B5版のカストリ雑誌として出版。出版元は曙書房。
1947年(昭和22年)12月号、『変態奇人号』で既に変態志向の兆し。
1948年(昭和23年)、辻村隆が信土寒郎の名で投稿した作品が採用。
須磨参画時代(曙書房時代)
1951年(昭和26年)、1月号から月刊化[注 4]。この頃、須磨が参画[2][注 5]。
1951年(昭和26年)、辻村隆が積極的に関わる。1951年1月号に辻村隆の名で執筆。
1951年(昭和26年)7月、辻村隆や吉田稔がヌード写真の撮影。奇譚クラブ1952年の1月号に掲載されている[3]。
1952年(昭和27年)、5月・6月合併号からA5版に変更し、『戦争と性慾特輯号』『倒錯の告白』などSM路線を開始[2]。7月号には『裸婦肉体美写真実費分譲』の案内に「・・責められる女の美の極致」、8月号に『責め女の写真実費分譲』と出る。
1952年(昭和27年)夏、辻村隆が立花郁子を実験的に縛り[3]、次いで川端多奈子を本格的に縛る。
1952年(昭和27年)10月、『KK通信』[注 6]を発行(1955年まで)。
1953年(昭和28年)、須磨が離脱。7月号から須磨利之の作品がほぼなくなる。松井籟子の『淫火』の挿絵も喜多玲子から栗原伸に変わる。
1953年(昭和28年)11月号、濡木の『悦虐の旅役者』が青山三枝吉のペンネームで採用。挿絵は都築峰子。
1953年(昭和28年)12月、『美しき縛しめ第一集』(曙書房)刊行。撮影は塚本鉄三、緊縛は須磨利之[注 7]。第二集は、緊縛が辻村隆。
1954年(昭和29年)、3月号が発売4日目で発禁処分。濡木痴夢男が真木不二夫で掲載した『魔性の姉妹』(都築峰子挿絵)の内容が問題となった。
1955年(昭和30年)、5月号が摘発され、発禁処分。6月号〜9月号、12月号が休刊。
白表紙時代(天星社時代)
1955年(昭和30年)、発行元を天星社に変更して、10月号を出す[注 8]。11月号まで出して再び翌年3月まで休刊。1955年(昭和30年)10月号から1960年(昭和35年)5月号までを「白表紙時代」という。天星社時代は、さらに1967年(昭和42年)まで続く。
1956年(昭和31年)4ヶ月の休刊の後、4月号から復刊。11月号も休刊。
1958年(昭和33年)7月号に団鬼六の『お町の最後』が花巻京太郎の名で掲載。懸賞小説一位入選作品。
1960年(昭和35年)6月号よりカラー表紙に戻りグラビアも復活。
1960年(昭和35年)、吉田稔が濡木痴夢男に奇譚クラブの東京進出と編集長の打診[注 9][4]。
1962年(昭和37年)8・9月合併号より、団鬼六の『花と蛇』が花巻京太郎の名で掲載。連載2回目は11月号、3回目は12月号。ここで休載。
1963年(昭和38年)7月号より、『花と蛇』再開。花巻京太郎から団鬼六にペンネーム変更。
1964年(昭和39年)2月、『美しき縛しめ 第三集』発刊。
1964年(昭和39年)、11月号から辻村隆の「カメラハント」が連載開始(1973年まで)。
暁出版時代
1967年(昭和42年)、暁出版株式会社に組織替え。
1968年(昭和43年)8 or 9月 、編集人が箕田京二から杉原虹児に交代。
1968年(昭和43年)9月、「本誌自粛の徹底」をこれ以降の号、毎月に掲載し、当局の取り締まりを意識。
1975年(昭和50年)3月号以降は発刊されず。
エピソード
- 曙書房:大阪府堺局区内菅原通4-30
- 天星社:大阪市阿倍野区晴明通1-85
- 暁出版:正式には暁出版株式会社。大阪市住吉区大領町4-68
- 曙書房時代の表紙などには、フランスのLa Vie Parisienne(ラ・ヴィ・パリジェンヌ)誌で活躍した、Chéri Herouard、George Leonnec、Joseph Kuhn-Regnier らの作品がに多数無断(おそらく)使用されている。これらは古本屋で吉田稔が須磨利之に勧められて購入したという印刷画の束[4]に由来するものと推察される[5]
- 辻村隆の「話の屑籠』奇譚クラブ1959年(昭和34年)11月号, p18には大判時代の寄稿者として、高村暢児、須磨利之、夏目千代の名を上げている。
- 溝口健二監督の書斎には、整然と奇譚クラブが書棚を埋めていた[6]。
参考資料
注釈
- ↑ 1.0 1.1 木本至の『雑誌で読む戦後史』による。秋田昌美もこの日付を用いている。一方、高倉一の『秘密の本棚Ⅰ』の後書きによると、1946年(昭和21年)に不定期刊行物として最初に発行され、1951年(昭和26年)1月号から月刊誌化されたとある。
- ↑ 創刊号のデザインについてはグロテスクのページを参照されたし。
- ↑ 北原童夢・早乙女宏美『「奇譚クラブ」の人々』(河出書房新社, 2003)には10月号とあるので、さらに1号ふるいものがある可能性も排除できていない。
- ↑ 1月号が「第二十六集」とある。第3種郵便物を取得したのが1950年(昭和25年)10月5日。「須磨としゆき」「箕田京」の変名で須磨利之の作品が多数。辻村隆も執筆。挿絵は沖研二。
- ↑ 1940年代後半のカストリ時代から既に須磨が関わっていたとする説もある(秋田 昌美、濡木痴夢男、不二 秋夫『日本緊縛写真史 1』 (自由国民社, 1996))
- ↑ 16ページ。半年分120円を前納すると「特別会員」としてKK通信を郵送してくる。また、読者座談会に出席できたり、会員相互の文通が可能だった。
- ↑ 頒価500円
- ↑ この復刊第一号の表紙の写真は濡木の提供による。口絵の写真、本文の多くも濡木による(「奇譚クラブの絵師たち」より)。
- ↑ 返事は保留したが、その後吉田稔の方から、採算が採れないということで計画中止。