「杉浦則夫」の版間の差分

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1963年(昭和38年)頃、デザイン専門学校に進むが中退。劇団ひとみ座<ref group="注">ひょっこりひょうたん島で有名な人形劇団。1963年11月から1年間TBS系で放映された『伊賀の影丸』の制作に携わっていた。</ref>に大道具として入団<ref name="Joe">[http://smdetective.blog126.fc2.com/blog-entry-81.html Kabukijoe氏によるインタビュー(2010)]より。</ref><ref name="U">私信 to [[U]], 2010.4.12</ref>。
1963年(昭和38年)頃、デザイン専門学校に進むが中退。劇団ひとみ座<ref group="注">ひょっこりひょうたん島で有名な人形劇団。1963年11月から1年間TBS系で放映された『伊賀の影丸』の制作に携わっていた。</ref>に大道具として入団<ref name="Joe">[http://smdetective.blog126.fc2.com/blog-entry-81.html Kabukijoe氏によるインタビュー(2010)]より。</ref><ref name="U">私信 to [[U]], 2010.4.12</ref>。


1967年(昭和42年) 頃、兄の紹介<ref group="注">杉浦の兄は既に浅草東洋劇場にいた</ref>で浅草東洋劇場<ref group="注">Wikipediaによると「東洋興業経営。軽演劇を上演。1964年、浅草フランス座を取り壊して開場。1971年上階にあった寄席・浅草演芸ホールが移転する形で閉鎖。」とある。杉浦によると、浅草東洋劇場は初期のストリップスタイルで、脚本家、コメディアン、楽団員から構成。</ref>の進行係・照明係。[[深井俊彦]]などとも仕事を共にする<ref name="U"></ref>。
1967年(昭和42年) 頃、兄の紹介<ref group="注">杉浦の兄は既に浅草東洋劇場にいた</ref>で浅草東洋劇場<ref group="注">Wikipediaによると「東洋興業経営。軽演劇を上演。1964年、浅草フランス座を取り壊して開場。1971年上階にあった寄席・浅草演芸ホールが移転する形で閉鎖。」とある。杉浦によると、浅草東洋劇場は初期の[[ストリップ]]スタイルで、脚本家、コメディアン、楽団員から構成。</ref>の進行係・照明係。[[深井俊彦]]などとも仕事を共にする<ref name="U"></ref>。


1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場の閉鎖の後、[[たこ八郎]]から[[団鬼六]]を紹介され鬼プロに参加<ref group="注">[[たこ八郎]]とは浅草時代に知り合っていた。[[たこ八郎]]は浅草の舞台には出ていた記憶はない。彼の芝居も観たことはなかった(私信 to U)。</ref>。[[たこ八郎]]が中心のピンク芝居の第1回目の制作に関わる。鬼プロは渋谷区桜ヶ丘のAGアパートにあった<ref name="U"></ref>。
1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場の閉鎖の後、[[たこ八郎]]から[[団鬼六]]を紹介され鬼プロに参加<ref group="注">[[たこ八郎]]とは浅草時代に知り合っていた。[[たこ八郎]]は浅草の舞台には出ていた記憶はない。彼の芝居も観たことはなかった(私信 to U)。</ref>。[[たこ八郎]]が中心のピンク芝居の第1回目の制作に関わる。鬼プロは渋谷区桜ヶ丘のAGアパートにあった<ref name="U"></ref>。

2010年4月14日 (水) 21:55時点における版

杉浦則夫 (1942- )

すぎうら のりお 1942年(昭和17年)4月9日-


活動内容

写真家。

別名

Norio Sugiura

略歴

1942年(昭和17年)4月9日、名古屋生まれ[1]

1963年(昭和38年)頃、デザイン専門学校に進むが中退。劇団ひとみ座[注 1]に大道具として入団[2][3]

1967年(昭和42年) 頃、兄の紹介[注 2]で浅草東洋劇場[注 3]の進行係・照明係。深井俊彦などとも仕事を共にする[3]

1971年(昭和46年)、浅草東洋劇場の閉鎖の後、たこ八郎から団鬼六を紹介され鬼プロに参加[注 4]たこ八郎が中心のピンク芝居の第1回目の制作に関わる。鬼プロは渋谷区桜ヶ丘のAGアパートにあった[3]

1971年(昭和46年)頃、本木荘二郎が監督する鬼プロのピンク映画の制作に、田代幸三と共に助監督として参加。3本ほど制作[注 5][2][3]

1972年(昭和47年)、SMキングの編集に参加し写真撮影技術を深めて行く[注 6][注 7]

1973年(昭和48年)、SMキング別冊、『辻村隆の世界』に始めて緊縛写真が掲載[注 8][3]

1970年代後半、写真家として独立[注 9]。「SMセレクト」「SMファン」「SMマニア」「SM秘小説」の仕事。その後三和出版を中心に仕事。

1990年(平成2年)、株式会社杉浦則夫写真事務所設立。

2002年(平成14年)、HP「公式電網雑誌」を平田明と共に立ち上げる[3]

2005年(平成17年)、HP「杉浦則夫緊縛桟敷」を立ち上げる。

2007年(平成19年)、久しぶりの濡木痴夢男とのコンビ撮影。

エピソード

代表作

映画

写真集

『昭和緊縛史』など多数。[1]などを参照。

引用資料

注釈

  1. ひょっこりひょうたん島で有名な人形劇団。1963年11月から1年間TBS系で放映された『伊賀の影丸』の制作に携わっていた。
  2. 杉浦の兄は既に浅草東洋劇場にいた
  3. Wikipediaによると「東洋興業経営。軽演劇を上演。1964年、浅草フランス座を取り壊して開場。1971年上階にあった寄席・浅草演芸ホールが移転する形で閉鎖。」とある。杉浦によると、浅草東洋劇場は初期のストリップスタイルで、脚本家、コメディアン、楽団員から構成。
  4. たこ八郎とは浅草時代に知り合っていた。たこ八郎は浅草の舞台には出ていた記憶はない。彼の芝居も観たことはなかった(私信 to U)。
  5. 本木荘二郎が黒澤のプロデューサーであったことは田代幸三も教えてくれなかったので、2010年まで知らなかった。お酒好きの優しいおじさんで、可愛がってもらった(私信 to U)。
  6. SMキング時代は、メインは写真の編集であったようだ(Kinbakujoeインタビュー)。
  7. 鬼プロはこの頃にはピンク芝居、ピンク映画は手を引いていた。
  8. 全ての写真ではなく、一部が杉浦の作品。編集は杉浦と中原研一
  9. SM写真を集中的に撮り始める前に、1,2年一般エロ写真を撮影していた。マンボウ資料館にある『恋人たち』などがその時代の作品かもしれない。
  10. マンボウ資料館』より。

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