「吉田稔」の版間の差分
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*「大阪・北浜の相場師」という記述がある<ref name="dan">『【対談】康 芳夫(国際暗黒プロデューサー) 』[http://oniroku-dan.cocolog-nifty.com/ 団鬼六公式ブログ]</ref>。 | *「大阪・北浜の相場師」という記述がある<ref name="dan">『【対談】康 芳夫(国際暗黒プロデューサー) 』[http://oniroku-dan.cocolog-nifty.com/ 団鬼六公式ブログ]</ref>。 | ||
* 実家は古本屋で紙が手に入りやすかった。 | * 実家は古本屋で紙が手に入りやすかった。 |
2010年5月30日 (日) 16:42時点における版
よしだ みのる、19??年(昭和??年)- 1982年(昭和57年)?[注 1]は、奇譚クラブの編集長。
活動内容
緊縛師。編集人。仕掛人。
別名
略歴
1946年(昭和21年)(あるいは1947年(昭和22年))、奇譚クラブを創刊[注 2]。
1980年(昭和55年)頃から、脳溢血のために障害[1][注 1]。
エピソード
- 挿絵も描いていたようだ。例えば[杉山清詩]『食人ホテルの惨劇』[奇譚クラブ]]1951年(昭和26年)12月号の挿絵は「箕田京二」となっている。
- 「大阪・北浜の相場師」という記述がある[2]。
- 実家は古本屋で紙が手に入りやすかった。
- 「たまたま梅田駅で昔の戦友須磨利之と出会い、それがきっかかけで須磨氏が奇譚クラブに参画[3]。
- 1975年(昭和50年)の始め、吉田から高倉一に手紙。「体を悪くして入院した。とても『奇譚クラブ』の発行を続けられない、手元にある原稿や資料は送るから、代わって刊行を続けてくれないか。」承認の返事を出したのと入れ違いに、吉田の訃報が届いた[3]。
- 吉田の死去と共に奇譚クラブが終わったとする説もあるが、一方で、奇譚クラブ終刊後も元気にしていたという説もネット上に存在する(「昨年(2008年)飯田豊一氏に・・奇ク廃刊後の吉田稔元編集長のこととか、・・・聞きました。その結果は、吉田稔氏は奇ク廃刊後も元気で、なんと自身で車を運転して東京まで来たそうです。」昭和なつかし奇譚クラブ分譲写真)
代表作
参考資料
- ↑ 木本至『雑誌で読む戦後史』(新潮社, 1985)
- ↑ 『【対談】康 芳夫(国際暗黒プロデューサー) 』団鬼六公式ブログ
- ↑ 3.0 3.1 高倉一 『秘密の本棚Ⅰ:幻の雑誌1953~1964の記録』(1998, 徳間書店)