「百万弗劇場」の版間の差分
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==エピソード== | ==エピソード== | ||
*建物を変えながら、映画館の『[[キリン館]]」、劇場・映画館の「[[観音劇場]]」、「百万弗劇場」と変遷。 | *建物を変えながら、映画館の『[[キリン館]]」、劇場・映画館の「[[観音劇場]]」、「百万弗劇場」と変遷。 |
2016年3月3日 (木) 17:06時点における版
概要
1950年代初めに浅草の国際劇場のはす向かいにあったストリップ劇場。伊藤晴雨が責めの芝居をやっていた[1][2]。渥美清もいた。
別名
所在地
東京都台東区浅草。現在の東京都台東区浅草2丁目11番1号[3]。西条昇氏蔵。
歴史
1950年前後、大正時代から1930年(昭和5年)頃まで存在した観音劇場の跡地に、ストリップ劇場として開設。
1951年(昭和26年)6月、渥美清が専属コメディアンになる[4][注 1]。
1951年(昭和26年)12月1日、それまでの女剣劇からレヴュー・軽演劇の専門劇場としてリニューアル開場。だが客足が伸びずに、12日目に公演打ち切り[3]。
1951年(昭和26年)12月末、百万弗劇場が伊藤晴雨の作・演出による『雪地獄生娘』『火責め水責めの生娘』で大ヒット(エピソード参照)[1][3]。
1952年(昭和27年)1月、東京新聞に記事(エピソード参照)[5]。
1952年(昭和27年)1月17日、「エロ・グロ・バーレスク・ストリツプシヨウ」で送検[5]。
1952年(昭和27年)6月、東京タイムズに記事(エピソード参照)[5]。
1952年(昭和27年)、倒産[注 2]。その後美人クラブになったとある[2]。
1953年(昭和28年)、「正月の[女剣劇]は・・・そして百万弗劇場には座長なしの浅香光代劇団に音羽照子一座が合同して」といった記述も残る[6]。
エピソード
- 建物を変えながら、映画館の『キリン館」、劇場・映画館の「観音劇場」、「百万弗劇場」と変遷。
- 社長:関根信義[3]、支配人:小黒とある[1]。
- 渥美清は「赤羽の公楽劇場を経て、この百万弗劇場で初めて浅草の舞台を経験してから、川崎セントラルに移り、間もなく浅草フランス座に引き抜かれた。」[3]。
- 枷井克哉が通い詰め隠し撮りをしていた。
- 1951年(昭和26年)12月末の伊藤晴雨の作・演出による『雪地獄生娘』は『ストリップ四十八手』との抱き合わせで、それまでせいぜい200人だった観客動員数が、初日1,500人に膨れあがる。続き『火責め水責めの生娘』『続・ストリップ四十八手』も大ヒット。これに刺激され、フランス座が『毒婦暴状傳』で人気[1]。
- 1952年(昭和27年)1月の東京新聞記事「極端なエロ・グロで/再び活気をとりもどす:″額縁シヨウ″の誕生から五年目、空前の全盛時代を現出したストリツプ界も……女剣劇に圧倒され、ちよう落を唱える声も大きいが、事実は返つて極端なエロとグロを売物にし、昨年末来ものすごい勢で観客を呼んでいる/ヒロセ元美の巧妙なテクニツクでも、ハニー・ロイの魅力的な乳房でも、ストリツプに慣れた観客をつなぐことはできなくなつたこの世界は、昨年から「ストリツプ・フアツクル」(アクロバツト)を登場させ……、その内容はいずれも芸術などという香りはみじんも感じさせない卑わいなものへ、日一日と落ちて行くばかり/さらに非常な刺激を与えたのは、昨年末エロ・グロ・ストを看板に開場した浅草百万弗劇場である、伊藤晴雨氏所蔵の江戸時代刑罰の画(女が全身をあらわにして責められている)をウインドウ一ぱいにはりつけて宣伝、これまでせいぜい三百人そこそこしか入らなかつたのに、初日千五百人が押し寄せ、今日まで千数百の入りを下らない盛況……」[5]
- 1952年(昭和27年)6月の東京タイムズ記事「一月十七日浅草百万弗劇場(責任者A)の「エロ・グロ・バーレスク・ストリツプシヨウ」で、踊子の…子(二一)ほか六名に″続四十八手″と称して、男女のぬれ場を綿密に描写させていた(A以下全員送検)」[5]