「上田青柿郎」の版間の差分
(→略歴) |
(→略歴) |
||
17行目: | 17行目: | ||
1954年(昭和29年)、[[賀山茂]]が上田の「縛りの撮影会」に参加したとの記録を自伝に書いている<ref name="kaiko">賀山茂『縄愛回顧録』別冊[[S&Mスナイパー]]1983年(昭和58年)3月号から1984年(昭和59年)1月号まで連載。</ref>。会場は新宿の元遊郭。会費2000円。数名の会員が土蔵の中でSMショーを観る。当時、[[上田青柿郎|上田]]は辰巳出版にいたようだ、とある<ref name="HP">『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。</ref>。 | 1954年(昭和29年)、[[賀山茂]]が上田の「縛りの撮影会」に参加したとの記録を自伝に書いている<ref name="kaiko">賀山茂『縄愛回顧録』別冊[[S&Mスナイパー]]1983年(昭和58年)3月号から1984年(昭和59年)1月号まで連載。</ref>。会場は新宿の元遊郭。会費2000円。数名の会員が土蔵の中でSMショーを観る。当時、[[上田青柿郎|上田]]は辰巳出版にいたようだ、とある<ref name="HP">『賀山茂の世界』より(既に閉鎖されたHP)。</ref>。 | ||
1961年(昭和36年)、伊藤晴雨の葬儀に参列。この時、全日本社にいる<ref name="kyosei">『巨星落ちたり-妖美画家 伊藤晴雨伝』[http://www.amazon.co.jp/gp/product/4896677625?ie=UTF8&tag=iq05-22&linkCode=as2&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4896677625 美人乱舞:責め絵師伊藤晴雨頌](弓立社, 1997)</ref>。 | |||
1962年(昭和37年)、この頃広晴社出版の『[[実話と秘録]]』の編集人をやっている。 | 1962年(昭和37年)、この頃広晴社出版の『[[実話と秘録]]』の編集人をやっている。 |
2010年4月8日 (木) 15:48時点における版
うえだ せいしろう (生年不明)
活動内容
緊縛師。写真家。編集者。
別名
Seishiro Ueda、上田嘉信[1]
略歴
1949年(昭和24年)讀切ロマンスが創刊。人情講談別冊として合資会社サンライズ書房から。初期の編集人は小堀神風となっているが、1952年3月号は第4巻、5号として編集人が上田青柿郎に。発行も睦書房。
1952年(昭和27年)讀切ロマンス八月号(第4巻11号)臨時増刊号「ヌード風俗アルバム」。編集人:上田青柿郎、発行人:小林光雄、印刷人:加藤木豊三。発行は睦書房。編集後記に「『縛り絵』一年生」として上田の手記。「「女の責め場」をヌード写真に採上げてじゃらちょうど一年になる。・・・「
1953年(昭和28年)讀切ロマンス一月号臨時増刊号「伊藤晴雨監修:悦虐恍惚図」八〇円。編集人:上田青柿郎、発行人:小林光雄、印刷人:久野木貞治。写真内容はぐっと伊藤晴雨風になっている。
1953年(昭和28年)頃、風俗草紙に執筆。七月号「新しい責め古い責め」、八月号「木馬責め滑車責め」。
1954年(昭和29年)、賀山茂が上田の「縛りの撮影会」に参加したとの記録を自伝に書いている[2]。会場は新宿の元遊郭。会費2000円。数名の会員が土蔵の中でSMショーを観る。当時、上田は辰巳出版にいたようだ、とある[3]。
1961年(昭和36年)、伊藤晴雨の葬儀に参列。この時、全日本社にいる[4]。
1962年(昭和37年)、この頃広晴社出版の『実話と秘録』の編集人をやっている。
1970年(昭和45年)、綜合図書から「緊縛フォト選集 禁じられた恍惚」。カバー絵は秋吉巒。
1971年(昭和46年)、に綜合図書から「緊縛フォト選集 恍惚の美学」「同 薔薇聖女」カバー絵は秋吉巒。
年代不詳で団鬼六と現代ジュゲム・プロから「アブノーマルセックス」
エピソード
- 伊藤晴雨の流れをくむ緊縛師。
代表作
『讀切ロマンス』