「澤田正二郎」の版間の差分
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1925年(大正14年)、邦楽座、帝国劇場、新橋演舞場に進出。 | 1925年(大正14年)、邦楽座、帝国劇場、新橋演舞場に進出。 |
2012年11月4日 (日) 17:37時点における最新版
さわだ しょうじろう、1892年(明治25年)-1929年(昭和4年)
概要
新国劇の創設者で座長。大衆演劇の産みの親で伊藤晴雨と親交があった。
別名
略歴
1892年(明治25年)5月27日 、滋賀県に生まれる。
1909年(明治42年)、新劇俳優を目指し早稲田大学文科予科に入学。
1911年(明治44年)、坪内逍遙の文芸協会附属演劇研究所の2期生。
1913年(大正2年)、芸術座に参加。
1915年(大正4年)、早稲田大学を卒業し、近代劇協会に参加。
1917年(大正6年)、劇団『新国劇』を結成。
1922年(大正11年)、浅草の公園劇場を本拠とする。
1924年(大正13年)、関東大震災で劇場が倒壊。日比谷公園野外音楽堂での無料上演や地方巡業や、倒壊跡での『天幕劇場』など。
1924年(大正13年)、伊藤晴雨が澤田正二郎の口添えで新国劇の看板、舞台装置を描く[1]。
1925年(大正14年)夏、伊藤晴雨が澤田正二郎一座の北海道巡業に参加[1]。
1925年(大正14年)、邦楽座、帝国劇場、新橋演舞場に進出。
1929年(昭和4年)1月、永眠。
エピソード
代表作
引用文献
- ↑ 1.0 1.1 宮尾與男『伊藤晴雨略年譜』in 「江戸と東京 風俗野史」(図書刊行会, 2001)