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*「戦争に引っ張られる前夜、ひそかに憧れていたいとこの女性から、『私をあなたの好きなようにしていいのよ』といわれて、高揚するままに腰ひもで縛った。」「その時の感情が忘れられず、戦場でも『もう一度彼女を縛りたい。こんあところでは死にたくない』と思い続けていた」(美濃村伝聞。極楽商売) | *「戦争に引っ張られる前夜、ひそかに憧れていたいとこの女性から、『私をあなたの好きなようにしていいのよ』といわれて、高揚するままに腰ひもで縛った。」「その時の感情が忘れられず、戦場でも『もう一度彼女を縛りたい。こんあところでは死にたくない』と思い続けていた」(美濃村伝聞。極楽商売) | ||
*「古書の緊縛手法の本を開き乍ら、あれこれと緊縛し<ref name="70別冊"></ref>」 | *「古書の緊縛手法の本を開き乍ら、あれこれと緊縛し<ref name="70別冊"></ref>」 | ||
*1976年(昭和51年) | *1976年(昭和51年)頃は、縛りの方から遠ざかり、「おしっこ」に興味を持っているとインタビューに答えている<ref name="sankei"></ref>。 | ||
==代表作== | ==代表作== |
2009年12月10日 (木) 12:21時点における版
つじむら たかし、1921年(大正10年)10月-1987年(昭和62年)
活動内容
緊縛師。文筆家。
別名
Takashi Tsujimura、緑猛比古、信土寒郎
略歴
1921年(大正10年)10月、堺市に生まれる。
1920年代、小学校3,4年の頃、泥棒ごっこで木に縛り付けられることに奇妙な快感を覚える[1]。
1937年(昭和12年)頃、満州に渡る。前夜、当時つきあっていた(後の妻)女性を縛るのが初めての緊縛[1]。
1948年(昭和23年)、復員して金物屋を始めた頃に奇譚クラブを知り、信土寒郎の名で投稿した作品が採用。
1951年(昭和26年)この頃から奇譚クラブに在籍。同誌1952年2月号に「洋パンを囲む座談会」の記事が見られる。
1952年(昭和27年)夏、初めて川端多奈子を縛る[注 1]。吉田稔の緊縛を手伝うような記述。
1953年(昭和28年)秋頃から奇譚クラブに構成:辻村と名前が出る。
1964年(昭和39年)、奇譚クラブ11月号から『カメラハント』連載開始。1973年(昭和48年)まで続く。
1968年(昭和43年)9月24日、11PMに出演[注 2][2]。28日封切りの『徳川女刑罰史』のプロモーション。
1968年(昭和43年)、石井輝男監督『徳川女刑罰史』(東映)で緊縛指導。その様子は[3]に詳しい。
1969年(昭和44年)、石井輝男監督『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』(東映)で緊縛指導。自らも木樵役で出演。続いて同じく石井監督の『徳川いれずみ師 責め地獄』で緊縛指導。
1971年(昭和46年)、中島貞夫監督『性倒錯の世界』(東映)に出演。鈴木則文監督『温泉みみず芸者』に役人役で出演。
1973年(昭和48年)、SMキング7月増刊号で特集「縄師 辻村隆」
エピソード
- 奈良を中心に活動した。
- 陸軍の輜重(しちょう)兵(=後方支援隊)。(美濃村伝聞。極楽商売)。従軍4年。
- 戦後の職業は通説では、金物屋、経理、衛生検査技師だが、詳細は不明。学校教師との説もある。
- 「戦争に引っ張られる前夜、ひそかに憧れていたいとこの女性から、『私をあなたの好きなようにしていいのよ』といわれて、高揚するままに腰ひもで縛った。」「その時の感情が忘れられず、戦場でも『もう一度彼女を縛りたい。こんあところでは死にたくない』と思い続けていた」(美濃村伝聞。極楽商売)
- 「古書の緊縛手法の本を開き乍ら、あれこれと緊縛し[2]」
- 1976年(昭和51年)頃は、縛りの方から遠ざかり、「おしっこ」に興味を持っているとインタビューに答えている[1]。
代表作
『カメラハント』
関連文献
下川耿史「極楽商売―聞き書き戦後性相史」(筑摩書房、1998)
参考資料
注釈
お役たちweb