「壮士芝居」の版間の差分
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*「脚色に困れば女の責場を一幕加えるのが新派の定石のようになって居た」<ref name="sonokoro"></ref>。 | |||
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2011年1月8日 (土) 20:53時点における版
概要
書生芝居とも呼ばれ、旧劇と明治中期の為政者の圧迫に反抗して生まれた芝居の一種。中江兆民らの自由民権運動に連動した文化運動。後の新派に発展していく。伊藤晴雨が、壮士芝居の仲で、頻繁に責めのシーンが使われたことを指摘している[1]。
歴史
1889年(明治22年)6月12日[注 1]、大阪新明座[注 2]で公演で角藤定憲を座長とした壮士芝居の中に、中将姫の雪責め[1]。
1891年(明治24年)2月、川上音二郎[注 3]を座長とした川上一座が堺市の卯の日座で旗揚げ。書生芝居と呼ばれた。同年、浅草・中村座で「板垣君遭難実記」[1]。
1891年(明治24年)11月、浅草吾妻座で依田学海の済美館「男女合同改良演劇」による壮士芝居「政党美談淑女の操」が上演。この芝居に責め場があったかどうか不明だが、小説雑誌「都の花」1888年(明治21年)10月-12月号に連載された際、小林永濯が責め絵的な挿絵を描いている[2]。
1898年(明治29年)、伊藤晴雨が浅草・浅草座で川上音二郎の「日清戦争」を観劇[1]。
1896年(明治29年)6月、伊藤晴雨が東京・本郷の春木座での「日清戦争・夜討之仇譚」の看護婦の拷問シーンを観て感銘をうける[3][注 4]
1897年(明治30年)〜1903年(明治36年)・1904年(明治37年)の8年ぐらい、責場の全盛期[1]。
1903年(明治36年)頃、新派という言葉が生まれる。
1904年(明治37年)2月8日、日露戦争始まる。
トピックス
- 『壮士』とは、自由民権運動の活動家の呼び名。
- 「素人同士の集合で・・・数年にして伝統のある旧派の塁を摩して一時は旧派を凌がんとする程の流行・・・女の責場を以て低級の観客に媚びたのが成功したものと云える」[1]。
- 「脚色に困れば女の責場を一幕加えるのが新派の定石のようになって居た」[1]。