「橘小夢」の版間の差分
提供:SMpedia
編集の要約なし |
編集の要約なし |
||
(同じ利用者による、間の8版が非表示) | |||
1行目: | 1行目: | ||
大正から昭和にかけて活躍した絵師。「[[雪姫]]」「[[八百屋お七]]」などの古典を題材に、数奇な運命を背負って生きる妖艶な女性を描いた作品が多い。 | |||
[[画像: | [[画像:sayume1.jpg|150px|thumbnail|[[橘小夢]]『'''[[雪姫]]'''』(制作年不明)]] | ||
[[画像:sayume2.jpg|150px|thumbnail|[[橘小夢]]『'''[[八百屋お七]]'''』(大正中期)]] | |||
[[画像:sayume3.jpg|150px|thumbnail|[[橘小夢]]『'''[[澤村田之助]]'''』(1934)(皆川博子「花闇」の表紙絵)]] | |||
'''たちばな さゆめ'''、1892年(明治25年)-1970年(昭和45年) | '''たちばな さゆめ'''、1892年(明治25年)-1970年(昭和45年) | ||
==概要== | ==概要== | ||
主に大正から昭和にかけて活躍した絵師。古典作品、小説などに題材を取り、数奇な運命を背負って生きる妖艶な女性を描いた作品が多い。 | |||
==別名== | ==別名== | ||
[http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english] | [http://www.nawapedia.com/index.php?title=english english] | ||
12行目: | 14行目: | ||
1892年(明治25年)10月12日、秋田市西線小屋町に生まれる。父・加藤則幹は漢学者<ref name="nihonnnoyoubi">中村圭子『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/430927577X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430927577X&linkCode=as2&tag=iq05-22 '''橘小夢画集 日本の妖美''']』([[河出書房新社]], 2015)</ref>。 | 1892年(明治25年)10月12日、秋田市西線小屋町に生まれる。父・加藤則幹は漢学者<ref name="nihonnnoyoubi">中村圭子『[http://www.amazon.co.jp/gp/product/430927577X/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=430927577X&linkCode=as2&tag=iq05-22 '''橘小夢画集 日本の妖美''']』([[河出書房新社]], 2015)</ref>。 | ||
1908年(明治41年)、上京。白馬会研究所にて洋画を学ぶ。黒田清輝に学ぶ<ref name="nihonnnoyoubi"></ref>。 | |||
1911年(明治44年)、川端画学校にて日本画を学ぶ。川端玉章に学ぶ<ref name="nihonnnoyoubi"></ref>。 | |||
1930年(昭和5年)9月1日、[[獵奇畫報]]9月号の扉絵に[[橘小夢]]の『青春の夢』 | |||
1933年(昭和8年)、第1回『優奇世絵展』(個展)を開催。 | |||
==エピソード== | ==エピソード== | ||
*生来の心臓病の影響で体調がおもわしくないことも多かった」<ref name="nihonnnoyoubi"></ref>。 | |||
*自ら「ビアズリ一、ベックリン、ムンク、ロダン、ダピンチに驚異を感じ興奮を覚え」と記述<ref name="nihonnnoyoubi"></ref>。 | |||
*画号を、画学生時代は「王章」と称し、明治のある時期から「橘小夢」<ref name="nihonnnoyoubi"></ref>。 | |||
==代表作== | ==代表作== | ||
===新聞=== | ===新聞=== |
2016年5月5日 (木) 17:26時点における最新版
大正から昭和にかけて活躍した絵師。「雪姫」「八百屋お七」などの古典を題材に、数奇な運命を背負って生きる妖艶な女性を描いた作品が多い。
たちばな さゆめ、1892年(明治25年)-1970年(昭和45年)
概要
主に大正から昭和にかけて活躍した絵師。古典作品、小説などに題材を取り、数奇な運命を背負って生きる妖艶な女性を描いた作品が多い。
別名
略歴
1892年(明治25年)10月12日、秋田市西線小屋町に生まれる。父・加藤則幹は漢学者[1]。
1908年(明治41年)、上京。白馬会研究所にて洋画を学ぶ。黒田清輝に学ぶ[1]。
1911年(明治44年)、川端画学校にて日本画を学ぶ。川端玉章に学ぶ[1]。
1930年(昭和5年)9月1日、獵奇畫報9月号の扉絵に橘小夢の『青春の夢』
1933年(昭和8年)、第1回『優奇世絵展』(個展)を開催。
エピソード
- 生来の心臓病の影響で体調がおもわしくないことも多かった」[1]。
- 自ら「ビアズリ一、ベックリン、ムンク、ロダン、ダピンチに驚異を感じ興奮を覚え」と記述[1]。
- 画号を、画学生時代は「王章」と称し、明治のある時期から「橘小夢」[1]。
代表作
新聞
引用文献
注釈