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1603年(慶長8年)3月24日、徳川家康が江戸幕府樹立。
1603年(慶長8年)3月24日、徳川家康が江戸幕府樹立。


1603年(慶長8年)、歌舞伎の元祖とされる女性役者'''出雲阿国'''が京都で評判。能舞台で踊りなどを披露。その後、'''女歌舞伎'''や'''若衆歌舞伎'''が流行。
1603年(慶長8年)、歌舞伎の元祖とされる女性役者'''出雲阿国'''が京都で評判。能舞台で踊りなどを披露。これが'''女歌舞伎'''となり広まる。


1629年(寛永6年)、'''女歌舞伎'''が禁止。'''野郎歌舞伎'''へと移行。
1629年(寛永6年)、'''女歌舞伎'''が禁止。入れ替わり'''若衆歌舞伎'''が流行。
 
1652年(承応元年)、'''若衆歌舞伎'''が禁止。'''野郎歌舞伎'''へと移行。


1678年(延宝6年)、京都で初代'''坂田藤十郎'''が人気。
1678年(延宝6年)、京都で初代'''坂田藤十郎'''が人気。
1678年(延宝6年)、「浮世絵の祖」と称される[[菱川師宣]]が『'''古今役者物語'''』を執筆。その中の「山ぜうだゆふ あんじゆのひめ([[三庄太夫 安寿の姫]])」に「いたはしやひめ君を、たかてこてにいましめて」とある<ref>[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/926050 『江戸時代文芸資料』]([[図書刊行会]], 1916)</ref>。


1680年(延宝8年)、徳川綱吉が第5代将軍。好景気の時代が続き、文化が栄える。
1680年(延宝8年)、徳川綱吉が第5代将軍。好景気の時代が続き、文化が栄える。


1685年(貞享2年)、江戸市村座で初代'''市川團十郎 '''が大ヒット。
1683年(天和3年)、中山勘解由が「[[海老責]]」を考案<ref>佐久間長敬『[http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937127 '''徳川政刑史料 拷問實記''']』(南北出版協会, 1893)</ref>。
 
1685年(貞享2年)、江戸[[市村座]]で初代'''市川團十郎 '''が大ヒット。金平浄瑠璃の影響をうけた「荒事」。


1688年(元禄元年)、'''元禄'''時代。1704年まで。
1686年(貞享3年)、'''井原西鶴'''が『'''好色五人女'''』で「'''[[八百屋お七]]'''」の事件を取り上げる。
 
1688年(元禄元年)、'''元禄文化'''時代。松尾芭蕉、井原西鶴、竹本義太夫、近松門左衛門、坂田藤十郎、市川團十郎が活躍。


1702年(元禄15年)、'''赤穂浪士の討ち入り'''。
1702年(元禄15年)、'''赤穂浪士の討ち入り'''。
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1703年(元禄16年)、'''近松門左衛門'''が竹本義太夫のために書いた、文楽作品『'''曽根崎心中'''』が大ヒット。
1703年(元禄16年)、'''近松門左衛門'''が竹本義太夫のために書いた、文楽作品『'''曽根崎心中'''』が大ヒット。


1716年(享保元年)、徳川吉宗が第8代将軍。質素倹約で文化は停滞。
1704年(宝永元年)頃、「辻講釈」が公許の常設小屋で上演される「'''講釈'''」(後の'''講談''')が生まれる。


1722年(享保7年)、徳川吉宗の'''享保の改革'''。「好色本禁令」で好色本や枕絵・春画本が禁止される。
1707年(宝永4年)、宝永地震、宝永大噴火などの大災害と共に'''元禄文化'''終焉。


1740年、マルキ・ド・サド、パリに誕生。1785年、獄中で『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を発表。1814年没。
1715年(正徳5年)、'''近松門左衛門'''の人形浄瑠璃『国性爺合戦』が大ヒット。すぐに歌舞伎に移植。「義太夫狂言」の始まり。
 
1716年(享保元年)〜1764年(明和元年)、人形浄瑠璃の全盛期。『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など。
 
1716年(享保元年)、徳川吉宗が第8代将軍。文治政治から'''武断政治'''へシフト。
 
1716年(享保元年)、山本常朝の『葉隠』で「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」。
 
1721年((享保5年)、'''近松門左衛門'''の文楽作品『'''心中天網島'''』<ref group="注">後に歌舞伎化され、今日では『河庄』『時雨の炬燵』がしばしば上演</ref>。
 
1722年(享保7年)、徳川吉宗の'''享保の改革'''。「'''好色本禁令'''」で好色本や枕絵・春画本が禁止される。
 
1730年(享保15年)、狂言の絵入台本集『'''狂言記 拾遺篇'''』に紹介されている『'''棒縛り'''』では太郎冠者が[[天秤棒担ぎ縛り]]にされ、次郎冠者は[[後手縛り]]に。
 
1732年(享保17年)、文楽『'''壇浦兜軍記'''』の「阿古屋琴責」で傾城の阿古屋に、琴・三味線などの楽器を弾かせて責める、風変わりな責め。


1740年(元文五年)、並木宗輔作『'''鶊山姫捨松'''』の三段目「'''[[中将姫の雪責め|中将姫雪責の段]]'''」
1740年(元文五年)、並木宗輔作『'''鶊山姫捨松'''』の三段目「'''[[中将姫の雪責め|中将姫雪責の段]]'''」


1765年(明和2年)、多色刷りの浮世絵「'''錦絵'''」が誕生。
1742年(寛保2年)、犯罪と裁判についての幕府法典『'''公事方御定書'''(くじかたおさだめがき)』が仮完成。裁判審理の場で利用されるようになる。
 
1746年(延享3年)、竹田出雲・三好松洛・並木千柳の文楽『'''菅原伝授手習鑑'''』で老女方の覚寿が苅屋姫を杖でせっかん。
 
1751年(寛延4年)、徳川吉宗が死去。財政の復興に成功するが質素倹約で文化は停滞した時代だった。
 
1765年(明和2年)、多色刷りの浮世絵「'''[[錦絵]]'''」が誕生。


1768年(明和5年)頃、'''奥村政信'''、'''歌川豊春'''、'''鳥居清長'''らの歌舞伎劇場の浮世絵。
1768年(明和5年)頃、'''奥村政信'''、'''歌川豊春'''、'''鳥居清長'''らの歌舞伎劇場の浮世絵。


1772年(安永元年)の新内『'''[[明烏夢泡雪]]'''』など。
1772年(安永元年)、新内『'''[[明烏夢泡雪]]'''』。
 
1775年(安永4年)、1727年に大岡越前の捌きで死罪となった「[[白木屋お熊]](駒)」の実話から文楽の松貫四・吉田角丸合作『'''恋娘昔八丈'''』が生まれる。
 
1778年(安永7年)、歌舞伎『'''金門五山桐'''』<ref group="注">後の『楼門五三桐』</ref>の「能舞台折檻」で姫が[[後手縛り]]。
 
1783年(天明3年)、近松半二の文楽『'''伊賀越道中双六'''』の「円覚寺の段」で縄で捉えるシーン。
 
1785年(天明5年)、マルキ・ド・サドが獄中で『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を発表。
 
1787年(天明7年)、『'''寛政の改革'''』。1793年まで続く。「'''洒落本'''」作者の山東京傳や版元の蔦屋重三郎が処罰。


1790年(寛政2年)頃、'''歌麿'''がブーム。
1790年(寛政2年)頃、'''歌麿'''がブーム。


1791年(寛政3年)、松平定信による『'''寛政の改革'''』。洒落本作者の山東京傳が手鎖50日の刑に。
1795年(寛政7年)、蔦屋重三郎がしかけた'''写楽'''の大ブーム。


1795年(寛政7年)'''写楽'''の大ブーム。
1798年、岡本万作と初代三笑亭可楽が江戸に落語の寄席を開く、'''落語'''がブームに。
 
1802年(享和2年)、十返舎一九の滑稽本『'''東海道中膝栗毛'''』がブーム。


1807年(文化4年)、[[歌川國貞]]の美人ががブーム。
1807年(文化4年)、[[歌川國貞]]の美人ががブーム。
1822年(文政5年)、[[歌川豊國]]の『'''逢夜雁之声'''』の中に[[後手縛り]]の絵がある。


1826年(文政9年)、[[歌川國貞]]の『'''繪本 開談夜之殿'''』<ref group="注">第1巻第2話の場面2に「寄つてかゝつて[[高手小手]]にくゝしつけ」と、[[高手]]位置での[[後手縛り]](胸縄はない)が描かれている。</ref>を発表。
1826年(文政9年)、[[歌川國貞]]の『'''繪本 開談夜之殿'''』<ref group="注">第1巻第2話の場面2に「寄つてかゝつて[[高手小手]]にくゝしつけ」と、[[高手]]位置での[[後手縛り]](胸縄はない)が描かれている。</ref>を発表。
1828年(文政11年)5月9日、[[市村座]]でおこなわれた『'''菅原伝授手習鑑'''』の[http://www.um.u-tokyo.ac.jp/DM_CD/DM_CONT/BANDUKE/DIGITAL/02_008/IMG005.JPG 絵本番付に縛りの絵]がある。


1831年(天保2年)頃、'''北斎'''や'''広重'''がブーム。
1831年(天保2年)頃、'''北斎'''や'''広重'''がブーム。


1836年、レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホ、オーストラリアに誕生。1871年に小説『毛皮を着たヴィーナス』を発表。1895年没。
1832年(天保3年)、'''七代目市川團十郎'''の『'''歌舞伎十八番'''』。
 
1841年(天保12年)5月〜1843年(天保14年)9月、水野越前による'''[[天保改革]]'''。あらゆる文化活動が制限。遊女を題材とすることや、歌舞伎役者の似顔、名前、紋などを浮世絵に描くことが禁じられる。


1841年(天保12年)5月〜1843年(天保14年)9月、水野越前による'''天保改革'''。あらゆる文化活動が制限。遊女を題材とすることや、歌舞伎役者の似顔、名前、紋などを浮世絵に描くことが禁じられる。
1842年(天保13年)'''天保改革'''のあおりを受け'''七代目市川團十郎'''が江戸から追い出される。


1850年(嘉永3年)、[[歌川芳年]]が[[歌川国芳]]に入門。
1850年(嘉永3年)頃、[[落合芳幾]]、[[月岡芳年]]が[[歌川国芳]]に入門。


1854年(安政〜文久)頃、梅亭金鵞(金鵞大人、吾妻雄兔子、吾妻男一丁, 1821-1893)の作による『'''[[發花杖]]'''』が記録に。
1854年(安政〜文久)頃、梅亭金鵞(金鵞大人、吾妻雄兔子、吾妻男一丁, 1821-1893)の作による『'''[[發花杖]]'''』が記録に。


1859年(安政5年)、1890年-1900年に緊縛写真を撮影していた画家で写真家[[Charles François Jeandel]]が生まれる。
1859年(安政5年)、1890年-1900年に緊縛写真を撮影していた画家で写真家[[Charles François Jeandel]]が生まれる。
1862年(文久2年)、[[河竹黙阿弥]]『'''[[魁駒松梅桜曙微]]'''<ref group="注">いちばんのりめいきのさしもの</ref>』で[[欠皿]]こと楓姫が継母にイジメぬかれる。[[澤村田之助]]が演ずる。
1866年(慶応2年)、[[落合芳幾]]と[[月岡芳年]]との競作『'''英名二十八衆句'''』が大人気に。


1868年(慶応4年)、15代将軍徳川慶喜で江戸時代終わる。
1868年(慶応4年)、15代将軍徳川慶喜で江戸時代終わる。
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SM関連の出来事

1603年(慶長8年)3月24日、徳川家康が江戸幕府樹立。

1603年(慶長8年)、歌舞伎の元祖とされる女性役者出雲阿国が京都で評判。能舞台で踊りなどを披露。これが女歌舞伎となり広まる。

1629年(寛永6年)、女歌舞伎が禁止。入れ替わり若衆歌舞伎が流行。

1652年(承応元年)、若衆歌舞伎が禁止。野郎歌舞伎へと移行。

1678年(延宝6年)、京都で初代坂田藤十郎が人気。

1678年(延宝6年)、「浮世絵の祖」と称される菱川師宣が『古今役者物語』を執筆。その中の「山ぜうだゆふ あんじゆのひめ(三庄太夫 安寿の姫)」に「いたはしやひめ君を、たかてこてにいましめて」とある[1]

1680年(延宝8年)、徳川綱吉が第5代将軍。好景気の時代が続き、文化が栄える。

1683年(天和3年)、中山勘解由が「海老責」を考案[2]

1685年(貞享2年)、江戸市村座で初代市川團十郎 が大ヒット。金平浄瑠璃の影響をうけた「荒事」。

1686年(貞享3年)、井原西鶴が『好色五人女』で「八百屋お七」の事件を取り上げる。

1688年(元禄元年)、元禄文化時代。松尾芭蕉、井原西鶴、竹本義太夫、近松門左衛門、坂田藤十郎、市川團十郎が活躍。

1702年(元禄15年)、赤穂浪士の討ち入り

1703年(元禄16年)、近松門左衛門が竹本義太夫のために書いた、文楽作品『曽根崎心中』が大ヒット。

1704年(宝永元年)頃、「辻講釈」が公許の常設小屋で上演される「講釈」(後の講談)が生まれる。

1707年(宝永4年)、宝永地震、宝永大噴火などの大災害と共に元禄文化終焉。

1715年(正徳5年)、近松門左衛門の人形浄瑠璃『国性爺合戦』が大ヒット。すぐに歌舞伎に移植。「義太夫狂言」の始まり。

1716年(享保元年)〜1764年(明和元年)、人形浄瑠璃の全盛期。『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』など。

1716年(享保元年)、徳川吉宗が第8代将軍。文治政治から武断政治へシフト。

1716年(享保元年)、山本常朝の『葉隠』で「武士道と云ふは、死ぬ事と見付けたり」。

1721年((享保5年)、近松門左衛門の文楽作品『心中天網島[注 1]

1722年(享保7年)、徳川吉宗の享保の改革。「好色本禁令」で好色本や枕絵・春画本が禁止される。

1730年(享保15年)、狂言の絵入台本集『狂言記 拾遺篇』に紹介されている『棒縛り』では太郎冠者が天秤棒担ぎ縛りにされ、次郎冠者は後手縛りに。

1732年(享保17年)、文楽『壇浦兜軍記』の「阿古屋琴責」で傾城の阿古屋に、琴・三味線などの楽器を弾かせて責める、風変わりな責め。

1740年(元文五年)、並木宗輔作『鶊山姫捨松』の三段目「中将姫雪責の段

1742年(寛保2年)、犯罪と裁判についての幕府法典『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』が仮完成。裁判審理の場で利用されるようになる。

1746年(延享3年)、竹田出雲・三好松洛・並木千柳の文楽『菅原伝授手習鑑』で老女方の覚寿が苅屋姫を杖でせっかん。

1751年(寛延4年)、徳川吉宗が死去。財政の復興に成功するが質素倹約で文化は停滞した時代だった。

1765年(明和2年)、多色刷りの浮世絵「錦絵」が誕生。

1768年(明和5年)頃、奥村政信歌川豊春鳥居清長らの歌舞伎劇場の浮世絵。

1772年(安永元年)、新内『明烏夢泡雪』。

1775年(安永4年)、1727年に大岡越前の捌きで死罪となった「白木屋お熊(駒)」の実話から文楽の松貫四・吉田角丸合作『恋娘昔八丈』が生まれる。

1778年(安永7年)、歌舞伎『金門五山桐[注 2]の「能舞台折檻」で姫が後手縛り

1783年(天明3年)、近松半二の文楽『伊賀越道中双六』の「円覚寺の段」で縄で捉えるシーン。

1785年(天明5年)、マルキ・ド・サドが獄中で『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』を発表。

1787年(天明7年)、『寛政の改革』。1793年まで続く。「洒落本」作者の山東京傳や版元の蔦屋重三郎が処罰。

1790年(寛政2年)頃、歌麿がブーム。

1795年(寛政7年)、蔦屋重三郎がしかけた写楽の大ブーム。

1798年、岡本万作と初代三笑亭可楽が江戸に落語の寄席を開く、落語がブームに。

1802年(享和2年)、十返舎一九の滑稽本『東海道中膝栗毛』がブーム。

1807年(文化4年)、歌川國貞の美人ががブーム。

1822年(文政5年)、歌川豊國の『逢夜雁之声』の中に後手縛りの絵がある。

1826年(文政9年)、歌川國貞の『繪本 開談夜之殿[注 3]を発表。

1828年(文政11年)5月9日、市村座でおこなわれた『菅原伝授手習鑑』の絵本番付に縛りの絵がある。

1831年(天保2年)頃、北斎広重がブーム。

1832年(天保3年)、七代目市川團十郎の『歌舞伎十八番』。

1841年(天保12年)5月〜1843年(天保14年)9月、水野越前による天保改革。あらゆる文化活動が制限。遊女を題材とすることや、歌舞伎役者の似顔、名前、紋などを浮世絵に描くことが禁じられる。

1842年(天保13年)、天保改革のあおりを受け七代目市川團十郎が江戸から追い出される。

1850年(嘉永3年)頃、落合芳幾月岡芳年歌川国芳に入門。

1854年(安政〜文久)頃、梅亭金鵞(金鵞大人、吾妻雄兔子、吾妻男一丁, 1821-1893)の作による『發花杖』が記録に。

1859年(安政5年)、1890年-1900年に緊縛写真を撮影していた画家で写真家Charles François Jeandelが生まれる。

1862年(文久2年)、河竹黙阿弥魁駒松梅桜曙微[注 4]』で欠皿こと楓姫が継母にイジメぬかれる。澤村田之助が演ずる。

1866年(慶応2年)、落合芳幾月岡芳年との競作『英名二十八衆句』が大人気に。

1868年(慶応4年)、15代将軍徳川慶喜で江戸時代終わる。

引用文献

  1. 『江戸時代文芸資料』(図書刊行会, 1916)
  2. 佐久間長敬『徳川政刑史料 拷問實記』(南北出版協会, 1893)

注釈

  1. 後に歌舞伎化され、今日では『河庄』『時雨の炬燵』がしばしば上演
  2. 後の『楼門五三桐』
  3. 第1巻第2話の場面2に「寄つてかゝつて高手小手にくゝしつけ」と、高手位置での後手縛り(胸縄はない)が描かれている。
  4. いちばんのりめいきのさしもの

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