「豊原路子」の版間の差分
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1959年(昭和34年)、[[豊原路子]]名で『'''マンハント'''』を朱雀社から出版。 | 1959年(昭和34年)、[[豊原路子]]名で『'''マンハント'''』を朱雀社から出版。 | ||
1959年(昭和34年)11月、『'''[[実話画報]]'''』に『'''私は男の便器になりたくない'''』 | |||
1966年(昭和41年)2月、『顔を貸せ』(松竹、湯浅浪男監督)に端役として出演。 | 1966年(昭和41年)2月、『顔を貸せ』(松竹、湯浅浪男監督)に端役として出演。 | ||
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1987年(昭和62年)、『世界の男グルメ・裏のウラ』を出版。 | 1987年(昭和62年)、『世界の男グルメ・裏のウラ』を出版。 | ||
==エピソード== | ==エピソード== | ||
*遠藤周作、[[伊藤文學]]と交遊。 | *遠藤周作、[[伊藤文學]]と交遊。 |
2019年12月22日 (日) 18:09時点における最新版
とよはら みちこ、1934年(昭和9年)頃[注 1]〜
概要
文筆家。女優。「潮吹き女性」で有名だったトルコ(ソープ)嬢でセックスコンサルタント。「愛人バンク」や「デートクラブ」の前身となる組織を作った仕掛け人でもある。
別名
家嶋芙美子
略歴
1958年(昭和33年)、『銀座のエロス』で作家デビュー。家嶋芙美子名。
1959年(昭和34年)、豊原路子名で『マンハント』を朱雀社から出版。
1959年(昭和34年)11月、『実話画報』に『私は男の便器になりたくない』
1966年(昭和41年)2月、『顔を貸せ』(松竹、湯浅浪男監督)に端役として出演。
1966年(昭和41年)12月、九州から上京した谷ナオミが助手について体位のモデルなどをやっていた[1]。
1966年(昭和41年)、『体当りマンハント旅行』がオスカープロから、糸文弘監督、豊原路子、横浜マコ、南条ユカ出演で映画化される。制作は千中ミュージックの社長。この映画には田中小実昌がトルコ風呂のマネージャー役で出演しており、深井俊彦も制作に関与していた[2]。
1967年(昭和42年)8月、成人映画No.20号に『男性を強く逞しく!! 強精術』治療の広告が。大久保駅前で治療費2000円。
1982年(昭和57年)、新宿歌舞伎町に個室ヌード「クレオパトラ」を開店[3]。
1984年(昭和59年)、六本木に「貞操帯クラブ クレオパトラ」を開店[3][注 2]。
1987年(昭和62年)、『世界の男グルメ・裏のウラ』を出版。
エピソード
代表作
著作
- 豊原路子『出たとこ勝負 私の世界マンユウ記』
- 豊原路子『マンハント』(朱雀社, 1959)
- 豊原路子『体当たり男性論』(第二書房, 1960)
- 豊原路子『体当たりマンハント旅行記』(第二書房, 1961)
- 豊原路子『じゃぱん淑女のマン・ハント』特集・週刊大衆 世界の秘境シリーズ、1962年5月号
- 豊原路子『世界の男グルメ・裏のウラ』(広論社, 1987)
映画
- 『体当りマンハント旅行』(糸文弘監督。オスカープロ, 1966)、主演女優
- 『顔を貸せ』(松竹、1966)、脇役
参考資料
- ↑ みうらじゅん・鈴木義明『永遠の女優 谷ナオミ』(コアマガジン, 2004)
- ↑ 田中小実昌データベース
- ↑ 3.0 3.1 3.2 『今年四十九歳の「性女」豊原路子いまも健在!』週刊新潮 1984年(昭和59年)2月2日号, p143